17.彼の過去を知らない

 岸君はとても優しい篠原の友達だ。陽気で、わたしたちを笑わせるためにわざとひょうきんな真似をして、楽しませる。体つきは大柄でがっしりしていて、筋肉質。篠原に後ろ姿が似ているが、篠原はもう少しひょろりと背が高い。太い眉と大きな目、しっかりしたあご。父が尊敬する昔の俳優に似ている。つまり今どきの顔ではないのだが、明るさと豪快な笑顔でわたしにとっては好ましい顔、という気がしてきた。

「岸君さあ」

 篠原の席で一緒にご飯を食べているわたしの横に岸君はいて、所属する剣道部のメンバーについて、ひたすら大きな動きで説明していた彼に、わたしは声をかけた。

「篠原の中学時代からの友達なんだっけ」

「うん」

 岸君は笑った。篠原はジャムパンをかじり、彼のほうをじっと見る。

「いいよねえ、岸君は。わたしも中学のとき、篠原みたいな友達がほしかった」

 篠原と岸君が同時にきょとん、とする。

「だってさあ、男子ってよくわかんないもん。考えてることが。理解不能っていうか……」

「篠原は理解可能?」

 岸君はにやにや笑いながら訊く。

「うーん、篠原のことよく知らないけどさ、扱いに困ることはないし」

「おれ、しょっちゅう困ってるけどな」

 岸君がけらけら笑って食パンにブルーベリージャムを塗る。驚いたことに、今日の岸君のお弁当は食パン一斤だ。ジャム瓶も持参している。食パンは全部食べる気はなさそうだが、すでに二枚は食べ終えている。「太るよ」と言うと、「全部筋肉になるから!」と答える。家庭科では炭水化物はエネルギーになることを教わったが、彼の脳からは完全に消え去っているらしい。

「えー、何で? 篠原いいじゃん。優しいし、話聞いてくれるし」

「それ、町田さんだからじゃない?」

 岸君が言うと、椅子が引きずられるガタッという音がして、気づけば岸君がうずくまっていた。どうやら篠原に足を蹴られたらしい。

「別に町田だから話を聞いてるとかないから。お前の話だって聞いてるだろ?」

 篠原がすまし顔でパンにかぶりつく。岸君はすねをさすりながら、

「そんな、町田さんにするみたいに微笑みながらうなずいて聞くなんて真似は……」

 また同じ音がした。岸君は痛そうに反対の足をさすっている。篠原は、書道部にしてはやることが乱暴だ。こういうときだけ、運動部の粗暴な男子とそう変わらない気がしてくる。

「篠原は、昔から書道部だったの? 中学って書道部あるの?」

 篠原に訊くと、彼は少したじろいだ。岸君も痛そうにしながらも彼をちらりと見る。

「うん、まー……」

 篠原は岸君をちらりと見る。岸君も篠原を見る。何か隠していることはわかった。でも、やっぱりこれも「訊いてはいけないこと」だった。二人とも、深刻そうに目で会話して、岸君が話題を変えようと「でさあ!」と言ったのも、そういうことなのだろうと思ったのだ。

「ねえねえ、これ篠原君じゃない?」

 女子の声がして、わたしたちはそちらに目を引きつけられた。先程からクラスメイトたちが集まって盛り上がっていることには気づいていたが、自分たちには関係ないことだと思って気にしないでいたのだ。篠原、の一言でわたしは立ち上がり、ふらふらとそちらに歩いていった。どうやら皆で卒業アルバムを取り囲んでいるようだった。篠原の名前が出るということは、篠原の中学のアルバムなのかもしれない。

「うそー、篠原君、剣道部だったんだ。しかも主将」

「えっ」

 わたしは驚き、篠原を見た。軽い気持ちでそうしたのに、後悔した。篠原は青ざめ、ひどく怒った顔をしていた。立ち上がり、集団の中心に向かう。

「あ、篠原。何で剣道部だったこと、秘密にしてんの?」

 男子の一人が訊いた。篠原は答えず、アルバムが広げられた席の前に立った。他のクラスメイトが次々に質問する。

 確かここ剣道の強豪校だよね、強かったの? 何で今は剣道やってないの? ねえ、怒ってるの?

 彼はアルバムを静かに閉じ、片手で持って持ち主を探した。篠原はその男子の名前を呼び、

「こういうの、持ってくんなよ。あと、余計なこと話すなよ」

 苛立ちの波すら感じられない無機質な声で、彼はその男子に言った。「ごめん」と答えるその人は、篠原の目を見られずにいた。

 篠原は食べかけのパンをほったらかしにし、わたしと岸君も置いて教室から出た。クラスメイトたちは、「こわっ」「何なの? 地雷?」などと話して小さくざわめいていた。

 わたしは篠原を追いかけた。怒っていることは怖いと思ったけれど、彼はとても傷ついているように思えたから。

 一番奥の六組の前の廊下を進む彼を追いかける。ドアを開いて外に出るのを確認し、ついていく。ゴミ捨て場の前に、彼はいた。水色の空を見上げ、うろこ雲を眺めている。

「……大丈夫?」

 わたしが訊いても、篠原は背中を見せたまま振り向かなかった。

「町田はさ」

 不意に、篠原が声を出した。いつも通りの優しい声音だった。でも、振り向いたりはしない。

「この世の何もかもに価値を見出せなくなったこと、ある?」

 わたしは慎重に言葉を探した。嘘をついてはいけないと思った。軽率に答えはいけないとも。

「ない、かな。何となく生きてきたけど、優しい近所のお姉さんだとか、家族だとか、本だとか、何かがいつもあったから」

「そっか」

 篠原は振り向いた。その顔はいつもの微笑みをたたえていた。

「おれは、一回あった。そこからまだ這い上がってる途中」

「そう、なんだ」

 篠原は突然歩き出し、わたしを追い越して、先に校舎に入ろうとした。

「早く戻ろう。岸を忘れたままだろ」

 慌ててうなずき、篠原を追う。先に中に入った篠原は、ドアを開けたまま待っていてくれた。彼の前を通り過ぎようとしたとき、小さく聞こえた言葉は空耳だったのだろうか。

 ありがとう、と彼は言っていた。唐突で脈絡がなくて、わたしには何のお礼なのかわからなかった。

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