16.ちょっとしたお守り

「篠原ー! しのはら! おはよう!」

 廊下を歩く篠原を見つけ、走り寄る。篠原は微笑んでわたしを受け入れてくれる。

 あれから篠原と一緒にいることが増えた。彼と一緒だと、いつも嬉しい。わたしの話を笑って聞いてくれるのも、わたしがつまずいただけで心配そうに眉を寄せるのも嬉しい。ただ、彼は自分の話をしない。わたしは彼の話も聞きたいのに。会話の中で水を向けても、絶対に自分の家族や、小中学時代のことを言ったりしない。どうやら話したくないようなので、あまり聞き出そうとするような真似はしなくなった。嫌われたくないから。

 職員室から戻る途中らしい篠原は、廊下で立ち止まってわたしの一方的な話を聞いてくれた。父が昔の映画のテーマ曲を集めたCDを貸してくれたこと。ジョン・ウィリアムズという名前のその作曲家の華麗な経歴や、有名で美しい曲のこと。父と母がその曲のことを話していると、元々の映画の話になってわたしにはちんぷんかんぷんだったこと。でも、昔の映画は美しい音楽に彩られていたことを知って興味が湧いたこと。

「へえ、町田の家族は仲がいいんだな」

 篠原は思いもよらないところに感心していた。篠原の家は? と訊こうとしてやめる。もしかしたら一番訊かれたくないことかもしれない。わたしは篠原の家の家族構成すら知らないのだ。

「最近からだよ。反抗期でね、この間まで話したりしなかったんだ。お父さんには絶対笑顔を見せたりしない! って思うくらいいらいらしてたし」

「『笑顔を見せない』ねえ。町田はかわいがられてるみたいだから、結構こたえただろうな」

「そうかな」

 そうかもしれない。父は陽気でいつも笑っているけれど、本当は辛かったのかもしれない。父がわたしのことをかわいく思ってくれていることは確かなのだ。わたしは残酷なことをしていたのかもしれない。

「あ、この間買った本、読んだよ」

 篠原がにっこり笑った。わたしはこの間お互いに薦め合って買った本が、篠原にとっていい本だったらしいことを察知して喜んだ。篠原はわたしにとっても印象的な短編を挙げて、

「色んな色で塗られたカラーひよこが往来に溢れる瞬間が描かれてたよな。あの雑然として秩序が壊れるカラフルな描写が、何か、スカッとした」

「いいよね。ストレス発散、みたいな」

「ストレス、ねえ」

 篠原は考え込む顔をした。それからわたしを見て、「いい本を薦めてくれてありがとう」と言ってくれた。

 一緒に教室に入って、少し驚いた。教室は少しどんよりとして、落ち着きがないのに静かだ。女子の集団が教室の一点をにらみつけていた。後ろのほうの真ん中、わたしの前の席にその人はいた。怜佳は机に寄りかかり、電話をしていた。相手はどうやら彼女の恋人だ。甘えた口調で「ヒデ君」と呼びかけ、次の予定の話をしている様子は、この間のことなどまるでなかったかのようだ。ホームルームの時間が迫り、電話を終えると、彼女はあくびをして頬杖をつき、田中先生が来るのを待っていた。わたしはそっと自分の席に着いたが、怜佳は何の反応も示さない。怜佳をにらむ、かつての彼女の取り巻きたちは、まるで彼女にとっては見えない存在であるかのように無視された。わたしも同じだった。

 彼女が何もしないのもあるが、何故か、目の前にいても怖くなかった。きっと怜佳が登校するようになったら怖くて仕方がないはずだと思っていたのに。

 多分、篠原がついてくれるからだった。彼はわたしにとって、ちょっとしたお守りだった。

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