15.恋かどうかの判断材料

 雪枝さんの家に行くと、彼女はいつものように部屋着に眼鏡で家に迎え入れてくれた。今日は話したいことがたくさんあった。あれも、これも、と頭の中に浮かぶ。彼女が寝室兼居間に案内する後ろで、わたしはわくわくしていた。

 梅昆布茶と和紙風の袋に包まれたどら焼きが出され、わたしは彼女にお礼を言ってそれを口に運んだ。

「おいしいね」

「それねー、有名な和菓子屋さんで買ったやつ。歌子用の茶菓子だから存分に食べて」

 雪枝さんはにこにこ笑いながら頬杖をついていた。自分だけ、ブラックコーヒーをすすっている。わたしはありがたくどら焼きを口に入れた。幸せだ。食べ物を食べて幸せになるには、本当の意味で不幸ではないことが条件らしい。最近で一番おいしい食べ物を食べている気がした。

「歌子、幸せそうだね。何かあった?」

 雪枝さんはコーヒーをテーブルに置くと、座椅子にあぐらをかいたままわたしに笑顔を向けた。わたしは勢い込んで「あのね」と話し始める。

 わたしは、これまでのことを全て雪枝さんに話していた。怜佳たちに無視され始めたこと、拓人を振ったこと、篠原が助けてくれたこと。あの日、怜佳は最後まで教室に戻ってこず、今日も学校に来ていなかった。取り巻きたちはわたしを見ると気まずそうにするが、それ以外のクラスメイトたちは普通に接してくれるようになっていた。

 いじめのことは、あれほど言えなかったのに今は簡単に言えた。多分、篠原に言えたからだ。あれから全てが好転した。わたしはようやく気楽に過ごせるようになっていた。今日の昼食は篠原と、岸君という他のクラスの男子と食べた。岸君は篠原の中学時代からの友人で、とても明るく、優しい。

「ふうん」

 雪枝さんはわたしが話すことを熱心に聞いてくれていたが、最後に何だかにやにやして、人差し指を立てた。

「篠原君、素敵だね」

「そうだよね。すごく優しいし、一緒にいて楽しいし……」

 わたしが目を輝かせて話し始めると、雪枝さんはますますにやにやした。

「恋だね」

「え?」

「歌子は恋に落ちたんだ。篠原君、きらきらして見えるでしょ?」

 図星を突かれ、慌てて否定する。

「違うよ、友達ってこういう感じなんだ、って思ってる」

「友情かな?」

「雪枝さん、篠原は友達だよ」

 わたしが口を尖らせると、雪枝さんはあははと笑った。わたしはどら焼きの最後の一口を口に入れ、もごもごさせながら、

「だって、わたし恋愛できないと思うし」

 と言う。雪枝さんがきょとんとする。わたしは梅昆布茶をごくりと飲むと、続けた。

「わたし、誰かを好きになることってないと思う。中学のとき、皆つき合うとかつき合わないとか、好きとか好きじゃないとかで騒いでたけど、全然わからなかったもん。拓人にあんなに好きって言ってもらえても恋愛感情を抱けなかったし。きっとわたしは一生誰かとつき合ったり結婚したりすることなく、ずっと一人なんだ。お父さんとお母さんが死んだらずっと一人ぼっちで、猫や小鳥を話し相手にして年を取っていくんだ。そういうことばっかり考えるよ」

 雪枝さんはうなずきながら聞いていたが、最後には大笑いしていた。わたしは真剣な話を茶化されたような気がしてむっとした。雪枝さんは、くすくす笑いながらこう言った。

「たった十六歳で何言ってるの。今がそうだからって、何十年も先のことまで決まってるわけがないでしょ。まだ決めつけなくていいよ。わたしだってもう三十路だけど、まだ誰かと出会ったり、結婚したりする可能性はあると思うよ。相手は一人じゃなく、二人、三人といるかもしれない。日本人だけじゃなく外国人かもしれない。男かもしれない、女かもしれない。わたしがそう思えるんだから、わたしより十四歳も年下の歌子はもっと可能性あるよ。そんなに悲観しなくていいから」

 雪枝さんはにこにこ笑った。何だか少し気分が軽くなった。少なくとも、年を取ってからのことをやたら心配しなくても、大丈夫な気がしてきた。

「わかった。じゃあ、わたしも誰かを好きになるかもしれないね」

 雪枝さんに何気なく言うと、彼女はまたにやにやし始めた。

「篠原君とかね」

 もう、とわたしがすねると、雪枝さんは笑った。

「十代なんて、気負わなくていいんだよ。気負いたくなるけどさ。成人して十年経ったから言える。悩みすぎなきゃよかったな、もっと身軽になって色んなことやればよかったな、って。だから、歌子も軽やかにやってけばいいんだよ。友達が少なくても、年齢を重ねてみればすごい人数と友達になった、ってこともあるから」

 雪枝さんはわたしを優しい目で見てそう言った。雪枝さんにとって、わたしはかわいい妹のようなもので、わたしの心配をしたり、世話を焼いたりが楽しいらしい。そんな人には滅多に出会えないと思う。雪枝さんとの出会いも、ありがたいものの一つだ。

「それにしても、篠原君がついててくれるなら、歌子の学校生活は安泰だね。感謝だね」

「うん」

 そう会話を交わしながら、篠原の顔を思い浮かべる。真顔だと彫像のように冷たく見える彼は、笑うととても優しく温かい。きらきら、きらきらと彼の周りに光が散っている。それは雪枝さんの言う通り恋のなせる業なのだろうか? でも、恋をしたことのないわたしには、その判断材料がないのだ。

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