14.新しい何かが生まれる

 わたしたちはまだ子供で、できることなんて限られている。篠原の言葉に感謝はしても、本当に何かできるなんて思っていなかった。教室にいるとよく感じるのは、わたしという一人の人間よりも強い、集団の空気だ。だから、篠原一人の力で何かできるなんて、思えなかったのだ。

 でも、何よりも嬉しいのは彼の気持ちだ。彼の本気が伝わってきて、嬉しくて嬉しくて、寝るときになっても心が自ら熱を発しているようだった。それだけでも、わたしは明日を生きていけそうな気がした。


     *


 期末試験の結果がわかった。わたしは上から数えたほうが断然早いくらいの順位にいた。一位は、当然篠原だ。彼の元に集まる秀才たちのささやき声でわかった。すごいな、と思う。何かで一番になるなんて、わたしは経験したことがない。

 怜佳は担任の田中先生に呼び出されていた。彼女はあまり成績がよくないので、今回赤点を取ってしまったのかもしれない。無言で教室を出ていく彼女を、仲間たちは口を閉ざして見送っている。

 両親に試験結果の紙片を見せたら、きっと大喜びしてくれるだろうと思う。この間、拓人のことを相談してから、わたしは何となく両親を嫌えなくなっていた。どんなことにも全身全霊でわたしを心配してくれることがどんなにすごいことなのか、学校にいるとよくわかる。

 怜佳が戻ってきた。目が合い、にらみつけられる。視線を逸らし、お弁当の残りに箸をつけた。この手間のかかったお弁当は、母の愛情そのものだ。過剰で、でも温かい。

 息の詰まる教室から出て、校庭に足を踏み入れる。ポプラはすっかり紅葉していた。鮮やかな黄色い葉。少し前までの緑色とのグラデーションも美しかったが、黄色のみでできた濃淡はとても心を打つ。涼しい風が制服の中に入って抜けていく。校庭では日向ぼっこをしている上級生たちがいたり、一緒に歩いているカップルがいたりした。夏の青い空から転じて、空は薄い水色で、最近は夕暮れの様々な色のほうが魅力的だった。

 篠原と話したい、と思った。きっとわたしの何気ない言葉にふわっと微笑み、優しさのにじんだ口調で何か言ってくれるだろう。

 拓人と目を合わせて、手を振って、何か言い合って、昔あった日常を取り戻したい、とも思う。彼は子供じみた口調でわたしの名前を呼び、屈託なく笑ってくれるだろう。

 でもそれは無理だ。篠原とはこっそり話すことができる。でも、拓人はもうわたしとは別の人生を歩き始めたのだ。教室でも交差しない視線がそれを証明している。

 ため息をつき、携帯電話を見て、もう休み時間がほとんど終わったことに気づいて校舎に戻った。気が重かった。でも、わたしは学校から逃げ出すという発想すら持っていなかった。学校は、今やわたしの檻だった。

 教室には黒板側から入った。後ろのドアの一番近くに、拓人がいたから。そこからうまく怜佳たちに近づかないように席に戻るつもりだった。

 次の瞬間、わたしの視界は回転した。気づけば床に手をついて座っていて、ひざとてのひらに痛みを覚えていた。怜佳たちはドアのすぐそばにいて、その中の一人がわたしの足を引っかけたのだ。

 じん、じん、じん、とてのひらが痛む。わたしはゆっくりと用心深く立ち上がった。怜佳の取り巻き、つまりわたしが怜佳と共に仲良くしていたと思っていた人たちが、お揃いの仮面をつけたかのように笑っていた。ごめんねえ、気づかなかった、と言われた。クラスメイトたちは、さすがに気づかないふりはできないのか、動揺して互いを見合わせていた。拓人が一番後ろの席で血相を変えて立ち上がっていた。わたしの頭の中は真っ赤で、目は彼女たちの後ろで冷笑している怜佳ただ一人を見ていた。

「卑怯者」

 言葉が、つまずきながら出てきた。どうしてもっと甲高く、大きく、彼女の犯罪を喧伝するかのように大袈裟に出てきてはくれないのだろう。彼女は心外だとでも言うかのように、眉を上げた。

「あんたが間抜けだからいけないんでしょ」

 掴みかかって、叩いて、大暴れして、という自分を想像した。けれどわたしにできたのは大きく息をして彼女をにらむことだけで、あろうことか涙が溢れそうになっていた。

 拓人が大きな音を立てながらこちらに突進してきていた。彼はわたしとこんな関係になってもわたしを守ろうとしてくれているのだ。情けない、と思った。何も与えないわたしが、彼には与えられっぱなしの雛鳥みたいに思える。

「もうこういうこと、やめたら?」

 誰かが通る声で、静かに言った。教室の空気はまた止まった。怜佳の視線を追ってそちらを見ると、篠原が窓際の席から立ちあがってこちらを冷静な目で見ていた。怜佳が顔をしかめる。不安を覚えたようだった。

「どんなつもりなのかわからないけど、嘘で他人を扇動して、誰かを陥れるのは卑怯だと思うよ」

 篠原の言葉に、クラスメイトや怜佳の取り巻きたちは目を見合わせた。誰も意味をわかっていない。でも、怜佳は違うようだ。一人、青ざめて強張った顔をしている。

「嘘なんだろ? 町田が原の恋人を取ろうとしたなんて」

 取り巻きたちが驚きの声を上げた。それからそっと怜佳の顔を見て、もう一度仲間同士で目を合わせる。わたしは荒れていた呼吸が収まるのを感じた。

「単に個人的な恨みで、嘘をでっち上げたんだろ? だから町田本人には、いじめの本当の理由を言わないんだろ?」

 篠原はにらんだりあざけったりするのではなく、ただ淡々とそう言った。それでも怜佳には効果抜群で、彼女は何か言おうと口を開いたが、何も言えなかった。取り巻きたちが口々に彼女を問いただした。わたしは怜佳を信じてるよ、怜佳は被害者だもんね、などと空々しい言葉を並べながら、嘘だよね、わたしたち怜佳のためにやったんだから、などと彼女を追い詰めていく。怜佳は短い切羽詰まった息を一つ吐き、何も見ずに教室からすたすたと出ていった。

 教室が騒然となった。ひそひそと話す傍観者たち、混乱して騒ぐ怜佳の取り巻きたちのためだ。わたしは拓人を見ていた。彼はわたしからさほど離れていない位置でわたしを見、無力感に苛まれたように肩を落としていた。彼に何か言おうとし、わたしはすぐそばに篠原がいるのに気づいた。彼は、わたしに「てのひら」と言った。言われるままに差し出すと、右のてのひらは擦りむけ、自分でも驚くくらい真っ赤になっていた。

「保健室に行こう」

 篠原はわたしを促した。わたしは拓人をちらりと見て、歩き出した。彼は自分の席に戻るところだった。背中が寂しげで、何か声をかけたい気分になったが、声は息になって消えてしまう。

 保健室は一階で、渡り廊下を挟んだ別棟にある。わたしは篠原が横を歩くのを見上げた。彼は大きく、無表情で、ただわたしと歩いているだけのような顔をしていた。わたしはようやく声が出るのを感じた。ずっと試して、ようやく出た声。その意味のない音を、篠原は何か価値があるものだと思ったのか、ほっとした顔でわたしの顔を見た。まともに顔を見たら、ひどく彼が輝いているように感じてしまった。彼の周りで、光の粒が彼を照らしているかのように思えた。彼は美しい。それは前々から思っていたことだ。でも、顔立ちではない何かが、彼をより美しく見せていた。

「ありがとう」

 わたしが初めて発した声は、ひどく小さく、恥じ入っているかのように控えめだった。彼は微笑んだ。

「効果抜群だったろ?」

「どうして知ってたの? 怜佳が嘘ついてたって」

 わたしの質問に、彼は「勘」と答えた。驚いたわたしを見て、彼はにこにこ笑いながら続ける。

「あいつらも何となくおかしいと思ってたらしい。原がいないときに話してるのが聞こえて、それでわかったんだ」

「そう」

 わたしは顔を逸らして渡り廊下のコンクリートの地面を見た。何だか彼をまともに見ることができない。

「本当に、本当にありがとう。多分、わたしは篠原に命を救われた」

 もう一度顔を上げて彼に言うと、彼は声を上げて笑った。

「大袈裟だよ」

 ううん、本当に。それだけ言うと、わたしはすっかり何も言えなくなって、きらきら輝いて見える彼を、まぶしい思いで見つめた。

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