13.喉につかえた言葉

 完全に孤立したわたしに、誰も近寄ってはこなかった。体育では準備運動の相手を探すのに苦労したし、授業の予定が変更されても、教えてくれる人はいなかった。

 以前は男子とも仲良くしていた。けれど、それで余計に女子から嫌われたので、高校からはあまり話しかけないようにしていたのだ。だから、今は中学時代より一人ぼっちだ。

 人間って何だろうな、と哲学的な問いを一人重ねながら、休み時間には本を読んだ。ここまで他人から離れていれば怜佳も満足だろうに、彼女は仲間を連れてわたしの席を通りかかり、その中の一人が机にぶつかって読書の邪魔をする。

 耐えていた。誰にも言わず、一人で。両親にも先生にも雪枝さんにも黙っていた。言葉が、喉の奥につかえている。叫ぼうとして、息が詰まる。助けて。ただそれだけでいいのに。

 でも、苦しもうが楽しもうが、どんな心中であってもわたしたちは高校生で、平等に試験はやってきた。二学期の期末試験は、わたしたちの学校で台風のように荒れ狂った。わたしはすることがないので勉強をし、いつもより満足のいく結果を得られそうだった。


     *


「篠原、今回は古典九十七点だって。すごいよな」

 と誰かが言っていた。見ると篠原の周りに人が群がっていて、他のクラスの秀才たちが他の教科についての自信を彼に訊いていた。彼は自分の席につき、淡々と受け答えをしている。特に自慢をするわけでもなく、卑下するわけでもなく。

 篠原と話せたら、楽しいだろうな、と思った。彼は、特に笑わせようとか驚きを与えようとか、変わったことをするわけではない。でも、彼と話すのは楽しかった。穏やかで、緊張のほぐれた時間を送れた。そういうことができないのは、わたしが臆病だからだろうか、と考える。どうせ怜佳のいじめは徐々に苛烈になってきているし、怜佳の言うことなど無視して篠原と話せたらいい。

 でも、できるはずがないのだ。わたしは臆病だから。

 篠原のほうを見ていると、どん、と肩に誰かがぶつかって通り過ぎていく。怜佳たちだった。見るな、ということだろう。涙がにじむ。惨めだ。

「町田さん、いらっしゃい」

 中村先生が黒板側のドアから上半身を出してわたしを呼んだ。わたしは自分の中に潜り込んでいた意識が、はっと教室に戻ったのを感じた。最近、自分の中に潜ることが増えた。危険な兆候だという気がする。慌てて立ち上がり、先生のところに行く。

「篠原君も、来なさい」

 先生は、篠原のほうを向いて通る声で言った。篠原は無表情に立ち上がり、こちらにやってきた。気分が高揚する。篠原と公然と一緒にいられるのだ。

 先生についていき、職員室前に向かう。中には入れないだろう。きっと採点前の答案用紙がたくさんあるだろうから。

 先生は、不意に振り向いた。笑顔だ。

「あなたたち、よくやったわね。まあ、篠原君は想定内だけど、町田さんはよく頑張ったわ」

 篠原がきょとんとしている。わたしは少し嬉しくなり、「ありがとうございます」と笑う。

「これからも古典の勉強はちゃんとやってね。古典は日本人なら基本です」

 篠原もようやく合点がいったようだった。わかりました、とあの低い声で答える。中村先生は、「それだけよ、じゃあね」と言って職員室のドアを開いて中に入った。機嫌のよさそうな顔で。

 わたしは誰もいなくなった職員室前の廊下で、きょろきょろと辺りを見渡した。怜佳たちはいない。篠原はそんなわたしをじっと見下ろしていた。

「古典、何点だった?」

 彼の質問に、笑顔で答える。

「九十九点! 篠原より上ー!」

 篠原はにっこり笑った。久しぶりに見る、彼の笑顔。

「そっか。悔しいな。おれがクラスで一番だと思ってた。町田、ひょっとして古典は学年一位かもよ」

「かも! 嬉しい」

 わたしははしゃいでいた。だって、久しぶりに誰かと話すのだ。それも、篠原だ。

「元気にしてた?」

 篠原の質問に、うなずく。「まあ、何とか」

「あのさ、平気?」

 篠原の心配そうな顔を見ていて、わたしは笑っているはずなのに色んなものが震えているように感じられた。唇や、手や、視界が震えている。――気づけば、泣いていた。

 篠原はそっとハンカチを出してくれた。黒い綿のハンカチは、涙を拭くとより濃い色になった。

「あのね、寂しい」「うん」「一人ぼっちで、誰にも言えないんだ」「何を?」

 わたしは、しばらく彼のハンカチに顔を埋めていた。柔軟剤の匂いがせず、素朴な洗剤の香りがする。

 ようやく顔を上げた。涙はまだ止まらなかったけれど。篠原はじっと心配そうにわたしを見ていた。

「助けて、篠原」

 わたしは、ようやく喉につかえていたものが出ていったことに、深い安堵を覚えた。


     *


 放課後にアーケード街の大型書店で待ち合わせをした。ここは雪枝さんの勤務する店でもある。今日はシフトの時間が違うか、休みらしい。雪枝さんはいない。

 あのあと、わたしと篠原はわざとばらばらに教室に戻り、また顔を合わせない元の状態を演じた。でも、篠原があのあと言ってくれたのだ。あとで話そうと。それでこの店にいるのだ。さすがに学校から離れたここなら怜佳たちに見つかることもないだろうし、どうして早くこういう方法を思いつかなかったのだろうと思う。

 篠原は遅れてやってきた。「部活は?」と訊くと、「今日ばっかりはサボる」と笑った。

 二人で文庫本コーナーに行き、雪枝さんの字で書かれたポップが躍る中を一冊一冊吟味して回る。篠原は昔の小説を読むのにハマっているのだそうだ。今は谷崎潤一郎をよく読むらしく、一冊手に取ってあらすじを読むと、何だかアブノーマルな内容なので驚いてしまった。

「篠原、結構こういうの好きなんだ」

 わたしの表情に、彼は慌てた。青くなったり赤くなったりしながら、

「いや、全体に芸術的だし、深みもあるし、単純にそういうんじゃないから大丈夫、と思うけど」

 と弁明する。わたしはにっこり笑い、「わたしも読もう」と買うもののリストに入れた。

 篠原がわたしの好みを知りたがるので、同じ出版社から出た現代の女性作家の本を指さした。高い位置にあったけれど、背の高い彼は悠々と手に取ることができる。あらすじと最初の数ページを読み、「何か、シュール」と篠原は言う。でも、彼もそれを買うつもりになったようだ。わたしたちは、しばらく本の話をした。

「ああ、楽しかった」

 帰るころには外は夕暮れで、篠原が「あっ」という顔をした。

「どうしたの?」

「おれ、夕飯の当番なんだ。早く帰らないと」

 意外な返事を訊いて、興味が湧く。でも篠原はそれどころではないようだ。今にも帰りそうな様子だ。

「あのさ」

 彼は振り向いた。わたしは何だろう、と思って彼を見つめた。

「メールアドレス、訊いていい?」

「いいよ」

 彼は驚いたようにわたしを見る。わたしは携帯電話をバッグから引っ張り出し、彼にアドレスを見せる。互いに登録しあい、わたしは彼の名前を読み上げながら打ち込んでいった。

「篠原総一郎! 登録!」

「おれの下の名前知ってるんだ」

 篠原は笑った。当たり前だろう、と思う。でも、それを口に出さずに彼がわたしの名前を登録するのを見つめる。

「町田歌子。いい名前だよな」

 わたしは彼がそう笑うのが嬉しくて、にっこり笑う。彼が宝石の名前を言ったように聞こえたのだ。

「あとで、ID交換しようね」

 わたしはチャットアプリでやりとりするつもりで、彼に笑いかける。彼はうなずき、「町田」と真剣な顔をした。

「町田が『助けて』って言うの、確かに聞いたから。おれ、町田のこと助ける」

 胸が熱くなった。彼が何をしてくれるかに期待をしていたわけではなかった。単純に、誰かに助けを求める言葉を発したいというだけだったのだ。なのに、こう言ってくれている。

「ありがとう」

 やっとの思いで、そう答えた。

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