11.決めるのは、わたし

 やっと土曜日がやってきた。わたしはほっとした気分で準備をし、母に昼食はいらないと伝え、小学生のころから乗っている水色の自転車にまたがった。母が玄関のドアを開け、「遅くならないようにね」と叫ぶ。わかった、とうなずき、自転車を漕ぎ出す。

 久しぶりに街に出る。友達がいないわたしには分不相応な遠出だ。でも、今日は雪枝さんが待っていてくれるので、無駄なことをしている気にはならない。

 住宅街の一本道を出ると、そこはごみごみしたスクランブル交差点だ。近くの大学に通う、学生らしい大人びた人たちが大勢行き来している。今日は大学も休みだ。晴れ晴れとした顔で、恋人と、友人と、どこかに向かう。わたしはそれを横目に道路の空いたほうに自転車を走らせる。風が、わたしの肩で切り揃えた髪をすくい上げる。秋らしくはない暑さで汗ばんだ体に、冷たい風が通る。

 ビルが大きくなり、車が増え、道路が広くなり、自転車でも行きやすくなる。アーケード街の中では自転車を押す。適当な駐輪場に停め、アーケードの下を歩く。コーヒー店に、雪枝さんはいるのだという。わたしも以前はよく行っていたコーヒー店だ。怜佳との楽しい会話もそこで交わされたのだった。気づまりな気分だったが、大きな窓の向こうにいる雪枝さんが本を読んでいるのを見ただけで、安心した。思い出は上書きしていけばいいのだ。自動ドアが開くと、雪枝さんはこちらを見て本を置いて笑ってくれた。思わず駆け寄る。

「雪枝さん、大変なことになっちゃった」

 第一声がそれで、自分に呆れる。雪枝さんは部屋にいるときとは全く違うお洒落なシニヨンと白いシャツだった。眼鏡はかけていない。彼女は声を上げて笑い、「何?」と訊いてくれた。わたしはいそいそと正面の席に座り、あのね、と話し始めた。

「そっか。拓人君に告白されたんだ」

 雪枝さんが落ち着き払って言うので、わたしは驚いた。まるでわかっていたかのようだ。彼女はわたしを促し、飲み物を一緒に取りに行くように言った。わたしが甘いクリームの乗ったコーヒーを頼むと、自分はコーヒーのブラックを頼んだ。会計は雪枝さんがわたしの分まで済ませてくれた。話を聞いてもらうのに、申し訳ないなあ、と思う。

「拓人君の気持ちはわかってたでしょ?」

 席に戻り、雪枝さんが訊く。わたしは、多分、と答える。むしろ気づかないのがおかしいくらい、拓人はわたしに自分の気持ちを表していた。

「ずっと歌子を助け続けてくれるなんて、何か特別な気持ちじゃないとできないからね」

 雪枝さんはコーヒーを一口、ごくりと飲む。

「でも、歌子はこのままでいたいんでしょう?」

「え?」

「そうでしょ? 顔に書いてある」

 わたしは黙り込んだ。雪枝さんも頬杖をして、しばらく考える。それから、突然放り出すような口調になる。

「でも、まあ、全ては歌子が決めることだからね」

「えっ」

「今わたしが答えを決めつけて、歌子がそのまんま拓人君に言って、何が解決になるの? 変なしこりを残すだけじゃない? わたしは歌子が自分で決めるのが正しいと思う」

「でも、でも、拓人も篠原もわたしの気持ちを訊いてくるけど、わたしは何にもわからないよ」

 泣きそうな気分で訴えると、雪枝さんの目が輝く。

「ん? 篠原って誰?」

「男子。この間まで一緒にお弁当食べてた」

「えー、何それ! どんな感じの子?」

 雪枝さんに乞われるまま、篠原のことを説明した。容姿や、性格や、言動。色々なことを話すと、雪枝さんは、にんまり笑った。

「篠原君も、歌子のこと好きなんだ」

 やっぱり、そうなのだろうか。わたしは自分の感情の置き所がわからないまま、考える。篠原がわたしのことを本当に好きだったら、どうなるだろうか。わからない。何もかも、わからない。

「何にしてもさ」

 と雪枝さんは考えながら言った。

「拓人君が歌子を好きだろうと、篠原君が歌子を好きだろうと、歌子はわたしに相談してどうにかしようと思っちゃいけないってこと。わたしがアドバイスできるのは、それだけ」

「そんなあ」

 わたしはしょんぼりと肩を落とした。雪枝さんは、にっと笑った。


     *


 自分で、と言われると何も考えられなくなる。わたしは家に着くと、開口一番に母に相談した。

 母とはしばらくまともに話せていなかった。話すと、いらいらしてしまう。父ともそうだ。反抗期が来たのだとわかったときには、話す習慣がなくなっていた。わかっていても、母の過剰な気遣いに腹を立ててしまう。父のからかいも、度の過ぎたものと感じてしまう。

 それでも、母に話せば何とかなると思ってしまった。反抗期でも、母への信頼は失うことができないらしい。

「お母さん、どうしよう。拓人に告白された」

 料理をしている母にそう言うと、母は「えっ」と固まった。

「わたしのこと好きなんだって。でもわたしはこのままがいいなって思ってて……」

「駄目よ!」

 母は突然わたしにすがるように言った。

「つき合っちゃ、駄目」

「やっぱりそう思う? でもわたし、拓人と気まずくなるのが嫌なんだ。だから……」

「歌子ちゃんにはそういうの、早いと思うわ。だからつき合っちゃ駄目」

 母はそういうと、大慌てで携帯電話を取り出した。嫌な予感がして止めようとしたが、もう遅かった。母は庭の手入れをしていた父を家に呼んだのだ。

「どうした?」

「歌子ちゃんに、拓人君が告白したんだって!」

 止める暇もなく叫んだ。大慌てで「嘘、嘘、全部嘘だから」と言っても、もう聞いてくれない。父はわたしを見据え、「そうなのか」と妙に落ち着いた声で言った。

「拓人は、いい子だと思うけどつき合うのはよくないと思う」

 母と同じ答えだ。わたしはしゅんとしてうなずく。

「お父さんとお母さんは、歌子がつき合うとかつき合わないとか、そういう悩みを持つ必要はないと思う。断っていい」

「でも、拓人と気まずくなるよ」

「いいんじゃないか? 拓人もつき合いは長いし、気にしないと思う」

 父は笑顔で答えた。わたしは、そんなはずがないんだけどな、とつぶやきながら自分の部屋に戻った。結局は雪枝さんの言う通りなのだろう。わたしが自分で決めるしかないのだ。


     *


「拓人、今何してる?」

 とメッセージを送ると、しばらく経ってから、テレビ見てる、と返ってきた。面白い? と訊くと、まあまあ、と言われた。

 逆に聞くけど、歌子は何してる? スマホいじってる。あっそう。拓人はさ、課題済んだ? 済んだよ。何が難しかった? 英語。わたしまだやってない。急げよ。わかってる。

 とりとめのない会話が楽しかった。彼との関係のよさは、こういうところだった。気楽で、軽やか。わたしが彼の気持ちを拒否すれば、こういうものも失われるだろうと思った。

 わたしのどこがそんなに好きなの?

 携帯電話の画面にそう打ち込んで、消した。それは、わからないことだった。でも、今訊いてはいけないことだった。気軽に訊けることじゃない。

 あのさ、と画面に出た。何? と訊くと、何でもない、と返ってきた。気づまりになってきた。何か、言いたいことがあるようだ。

 飯食うから、じゃあな。

 結局出てきたのはそれで、わたしはほっとした。それから、ほっとしている自分をずるい、と感じた。

 いつまでも引き延ばせる問題じゃない。わたしは一人、考えた。拓人の「あのさ」の一言を思い出す。彼はその言葉だけでもちょっとした勇気が必要だったに違いないのに。「ずっと好きだった」と言ってくれたときの彼は、痛々しいほどに切ない顔をしていた。何だか涙が出てきて、拓人が可哀想になってきた。早く、答えを。

 しばらくうつむいて、ようやく書けたメッセージをわたしは送った。メッセージには、「明日の昼一時に、あおぞら児童公園で待ってるね」と書いてあった。

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