10.何もかも、わからないまま

 とうとう言ってしまった。結論を出すと。自分の部屋の水色のベッドの上で、わたしは転がって携帯電話を見ていた。一緒に写っている入学式の日の写真。彼はピースの形にした手を突き出し、首を傾げたわたしの横で笑っていた。拓人一人の写真もあった。誰か家族に撮ってもらったらしく、かっこつけた顔で写っている。確か、入学式の日にこの写真を送りつけてきて、新しい制服が似合うかどうか訊いてきたのだった。それから彼は待ちきれずにうちまで来て、わが家で賑やかにおしゃべりをしながらわたしとのツーショットを撮ってもらったのだ。

 彼はわたしにとって、必要な人。いてもらわなくては困る。だって、人生の一部なのだ。それがわたしの感情一つでいなくなるなんて、耐えられない。

 わたしは雪枝さんにメッセージを送り、拓人のことをずっと考えていた。思い出の中の彼は、優しく、無邪気で、わたしを助けてくれて、わたしの言葉一つで喜んでくれるかわいい幼馴染みだった。

 でも、――恋人になるって、どういうことなんだろう?


     *


 篠原とのことも厄介だった。彼は全く悪くないのに、わたしは彼のところに行ったり、話したりする勇気がなかった。お弁当は一人で食べた。彼はいぶかしんだようにわたしを見るが、こちらに来たりはしない。怜佳たちは満足したのか、いつものように教室の中心に集まり、大所帯で昼食を取っている。わたしはまだ無視されている。言い合いとはいえ、昨日話したのが嘘みたいだ。

 篠原と離れてみると、わたしは本当に一人だった。休み時間は拓人と話す以外ずっと沈黙している。昼休みも。拓人はお弁当に誘ってくれたが、彼の仲間の中ではわたしは浮くし、彼にわたしとだけお弁当を食べるよう頼むのも図々しい気がしたので、断った。唇が動かなくて、表情が消えていく気がした。

 窓の外を見るのが楽しみになった。校庭のポプラはもうすぐ紅葉というところで、ちらほらと黄色くなった葉が見えた。きれいだな、と思い、寂しいな、とも思った。

 雪枝さんと話せる日が楽しみだった。今度の土曜日、雪枝さんと会う約束をしていたのだ。そのあとの予定は、真っ白。

 運動不足の表情筋を動かして、大声を出す機会がほしかった。怒りでもいい、悲しみでもいい。激しい感情は、この物静かな憂鬱よりはずっとましだった。


     *


 金曜日は、帰りに小雨が降っていた。明るいオレンジ色の傘を差し、一人で校門に向かって歩く。水たまりがたくさんできていて、先程まで強い雨が降っていたことを思わせた。

 ポプラもこの寒さで紅葉が強まるだろう、と思うくらいには肌寒かった。ポプラは校庭をぐるりと囲むように植えてあり、まだまだ緑色が圧倒的に強い。完全に熟して黄色くなることが、わたしの切望だった。完全に熟して、落ちてしまって、たくさんある葉の中の一枚としての機能を果たす必要がなくなってしまう。それはわたしの理想だった。

 わたしは大人になるという未来が想像できなかった。それでも順調に人間として成熟して、いつか幸せにこの社会から抜け出せるというのは、一つの理想だった。わたしは社会でやっていけないのかもしれない。学校ではこんなにもうまく行かないのだから。そう思うほど、わたしは紅葉するポプラの葉に目を奪われた。そんなことはないよ、と言ってくれる人にはまだ出会えない。

 水たまりを踏む音がして、振り返ると篠原がいた。傘も差さずに、息を切らせて立っている。雨に濡れた篠原は美しいと思った。紺色の制服が、短い黒髪が、雨の粒で光っている。

「どうしたの、篠原。こんなところまで走ってきたの?」

 まさか怜佳たちも校門周辺を見張ったりはしていないだろうが、軽く校舎の窓を見て、誰もいないのを確認し、話しかけた。篠原は呼吸を整え、肩を大きく下げて、こう言った。

「何で最近おれのところに来ないの?」

 彼は無表情に言った。わたしは彼の髪が強まる雨で濡れるのが気になり、傘を差しかけた。彼は一歩わたしに近づき、わたしの傘の柄を握った。身長の高い彼が持つと、傘はわたしから離れてしまう。わたしは彼に体を近づけ、雨を避けた。

「原たちにこの間、何か言われた?」

 わたしは、何も言えなくて、地面を見つめた。

「町田に近寄っちゃまずいんなら、もう近づかない。でも、こんなのおかしいよ。交友関係まで原たちの思いのままなんて」

「そう、思うけど、そうするしかないよ」

「でも」

「拓人にも、悪いし」

 篠原が息を呑む気配がした。わたしも言うべきではないことを言ってしまったことに気づいた。

「……つき合ってるの?」

「ううん。違う」

 わたしは慌てて首を振る。篠原は、そっと訊く。

「結局、町田は浅井のことどう思ってるの?」

 黙って彼を見上げると、彼は切なげな表情でわたしを見ていた。わたしは目を逸らし、

「わからない」

 と答えた。

「わからない?」

 彼は茫然とわたしを見た。わたしはうなずいた。彼は唇を引き結び、「部活に戻るよ」と言った。濡れるから送っていこうとしたら、断られた。水たまりを踏みながら、彼は走っていく。傘はわたしの手に戻り、柄に残る彼の体温が、てのひらに伝わってきた。

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