9.世界で一番信じられる人

 廊下をぱたぱたと歩く音がして、教室のドアが開いた。それから「わっ」と驚いた声がした。それもそうだ。薄暗い教室で、わたしは明かりもつけずに机に突っ伏していたのだから。のろのろと顔を上げて、それが篠原だとわかった。彼は電灯のスイッチを入れ、大急ぎでわたしのほうに走ってきた。怜佳の言葉が頭に浮かんだ。恐怖で身がすくみ、篠原のほうを見ることができなかった。

「どうしたんだよ、町田。教室暗いよ。もう帰るころだし」

「何でもない」

 わたしは彼の顔を見ず、立ち上がった。彼はわたしをじっと見ていた。

「泣いてた?」

「ううん」

 わたしは暗い声のまま答え、バッグに教科書類を詰めていく。篠原はうろたえたようにわたしを見つめ続け、

「……原たちに何かされた?」

 と訊いた。頭がかっと熱くなった。首を振る。篠原はわたしの前に回り込み、

「なあ、何でも聞くから。言っていいから、言ってくれよ」

 と必死の顔で訴えた。どうしてそんなに優しくしてくれるのだろう。わたしのことが好きかもしれない、と思ってはいるけれど、それは幻想かもしれないのに。彼のこんなに心配そうな顔は初めてで、わたしは思わずしゃくりあげて泣いてしまった。

 ひっく、ひっく、と喉が震え、言葉が出てこない。篠原から離れることもできない。だって、彼はわたしに優しくしてくれているのだ。甘えたくて、全部聞いてもらいたくて、仕方がない。篠原はわたしの肩に手を置こうかどうか迷っている様子で、おどおどと手を上げたり下げたりしていた。

「何があった?」

「い、言えない」

「言えないって、何で?」

 まさか、篠原に関わることだとは言えない。わたしはただ泣いて、篠原を困らせた。彼はわたしの肩に手を置こうとした。そのときだった。

「篠原、歌子に何してんだよ」

 拓人の声だった。拓人は部活のあとらしく、制服のブレザーを雑に着た格好で走ってきた。篠原は戸惑い、

「おれじゃない」

 と言った。拓人は猛烈に怒り、

「お前じゃないんなら何で歌子がこんなに泣いてるんだよ」

 と食ってかかる。篠原は、額に手をやると、

「さっき、教室に入ったら一人で泣いてたんだ」

 と説明した。拓人の表情が変わった。それからわたしの前に来て、顔を覗き込んだ。

「怜佳たちに何かされた?」

 わたしはうなずいた。篠原にはできなかったのに、何故かその事実を肯定できた。

「何て言われた?」

「言えない……」

 さっきと同じ答えを、わたしは言った。拓人は心配そうにわたしの顔を見ていた。多分、真っ赤になって涙でみっともない顔だ。それでも、彼は平気でわたしの顔を見ている。

「ま、いいけど。深く話してくれなくても。おれがすっごい心配してることだけは覚えてて。いつでも聞くから、連絡したり、話したりしてくれよ」

 わたしは大きくうなずいた。それを、篠原は横からじっと見ていた。

「おれがついてる。だから安心して」

 わたしはようやく涙が収まるのを感じた。拓人の声は、安心させてくれる。

 小学校高学年から中学まで、わたしはクラスの女子とうまくいかなかった。友達ができては、今回と同じように避けられた。わたしがうまく周囲と同調できないことなどが理由のようだった。拓人はそれを知っている。そのたびに慰めてくれたのも拓人だから。いつも彼は「おれがついてる」と言ってくれた。心からの言葉だとよくわかった。彼のわたしに対する感情が恋愛感情へと変質しても、わたしが彼に同じ感情を抱けなくても、振り払えないのは彼が世界で一番信頼できる幼馴染みだからだった。多分、今のところ彼以上に信じられる人はいない。

「ありがとう、拓人」

 ようやくまともな言葉が出た。拓人と篠原はほっとした顔をしていた。

「落ち着いたよ。篠原も、ありがとう」

 篠原は微笑んだ。何だか寂しそうな顔で。

「そろそろ帰るよ。町田も落ち着いたみたいだし」

 篠原は言った。わたしと拓人は一緒に帰ることにして、彼を見送る。

「篠原ー、言っとくけど何があろうとも歌子に触んなよ」

 教室のドアをくぐろうとする篠原の後ろ姿に、拓人は明るい声で言った。どうやら怒って言っているわけではないようだ。篠原は振り向き、笑みを浮かべた。

「何だ。あいつ、笑うんじゃん」

「そりゃそうだよ。篠原は人間だし」

「何ていうか、スタイルいいし笑わないし、ちょっとサイボーグっぽかったよな。かっこいいとは思うんだけどさ」

 わたしは吹き出した。あんなにも篠原を嫌っていた拓人が、篠原を褒めていたから。

「いや、そうだよ。おれなんか身長普通だし顔も女子っぽいって言われるし、篠原には敵わないって思う」

「そんなことないよ。モテるじゃん」

 わたしがけらけら笑うと、拓人はしんみりした顔になった。

「歌子に好かれなかったら、そういうの、意味ないし」

 どきりとした。拓人は、真剣な顔になってわたしに言った。今度は強引な様子はなかった。

「おれ、小学校五年生から、歌子のこと意識してた。ずっと好きだった。もう、このままじゃいられないって思う。歌子がおれを受け入れるか振るかしてくれないと、苦しい」

 彼はわたしの目をじっと見た。

「答えがほしい」

 わたしは戸惑いながら、逃げ場を探していた。どうにかこのままでいられる逃げ場。でも、そんなものはなくて、わたしは覚悟を決めるしかなかった。彼の気持ちに、答えを出さなくてはならないのだ。

「……少し、考える時間をちょうだい」

 拓人がぱっと明るい顔になった。わたしは心臓が波打つのを感じながら、続けた。

「必ず答えを出すから」

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