6.授業中のメッセージ
朝から食べる、冷たい惣菜パンというものが新鮮だった。わたしは今まで簡単に食事を済ませたことがほとんどなかった。外食でハンバーガーを食べたりすることはあっても、それを二食以上続けて取ることがなかったのだ。
目の前の篠原はウインナーをかじって、やる気がなさそうに噛んでいた。あんまり食に執着がないようだった。身長は一八〇センチを軽く超えて、体つきもしっかりとしているのに。
「ごめんね。育ち盛りの篠原から、パンを奪ったりなんかして」
わたしがうなだれて言うと、篠原はまた笑った。
「いいよ。そろそろ身長が止まったほうが、不便じゃないから」
「不便なの? 高いところから皆を見下ろせて、いい気分じゃないの?」
篠原はくっくっと笑い、首を振って否定した。
「教室のドア、頭下げなきゃぶつかるし、何でもかんでも小さいし、デメリット多いよ」
「そう?」
わたしは一六〇センチと平均くらいなので、背の高い人の悩みというのは今一つ理解できない。わたしはじっと篠原を見つめた。彼は面食らったようにこちらを見返した。教室は無人で、わたしたちはいつもの篠原の席と、その前の席にいた。
「篠原はさあ、身長以外の悩み、ある?」
彼は困惑したようにわたしを見ている。わたしはため息をつき、机の上を見つめた。
「悩みだらけ、わたし」
「原たちがやってること?」
篠原は真剣な顔になった。原は怜佳の姓だ。わたしは肯定も否定もしなかった。誰にも救いを求められなかったのだ。今更篠原に助けを求めるなんて、できない。でも、何だか甘えたい気分だった。
「わたしがいけなかったのかなあ、とか、何かやっちゃったのかなあ、とか、考える」
「原たちのことだろ? それは、原たちが悪いよ。町田が何をしようと、こういう手段は卑怯だ。ましてや、心当たりがないんならますますそうだ」
目がうるんだ。篠原は茶化すことなく、わたしをひとかけらも非難することなく、わたしの味方をしてくれようとしていた。それでも、気になることがあった。
「篠原は、わたしが無視されてる理由知ってる?」
彼は、きょとんとした。どうやら知らないようだった。わたしは少し自信を失いながら、それを告げた。篠原はつき合いが短いから、拓人みたいに絶対的に信じてはくれないだろうな、とか、軽蔑するんじゃないか、とか、ぐるぐる考えながら。
篠原は、怒った顔をした。
「町田は、絶対に悪くない。友達の恋人を奪ったりしないし、こうやっておれに説明するのに、自分はやってないって嘘をついたりしないと思う」
びっくりした。同時に、涙が出てきた。こんな人が身近にいて、よかったと思った。彼と親しくすることを選んだことも、正しい気がした。彼は慌てた様子でわたしに渡すハンカチを探していた。でも、見つからないみたいで困って頭を掻いていた。
「わたしさ、男の子ってそんなに得意じゃないの。篠原は平気みたい。何だろう。友達として安心できるのかな。拓人もだけど」
拓人はもう安心できない気がするけど、とつけ加えるのはやめておいた。でも、つけ加えなくても篠原にとっては嬉しくない言葉だと気づいた。
彼は、不満気に唇を引き結んでいたのだ。
*
中村先生が漢詩の書き下し文を読み上げる。淀みなく、朗々と。いい声だ。それに、堂々としている。拓人は中村先生が苦手らしいが、わたしは好きだ。黒縁眼鏡も、一つにひっ詰めた髪も、縦に入った眉間のしわも、彼女の妥協をしない性格をはっきりと表していていいと思う。特にひいきされたり褒められたりしたわけではないが、わたしは中村先生の授業が好きで、課題や予習は一度も欠かしたことがなかった。
わたしのプリントは一ヶ所以外の全てが合っていた。ということは、拓人のプリントも同じ個所が間違っているということだ。また悲しい気分になってきた。拓人がいる、右のほうを見ることができない。彼はわたしを見ないようにしていた。すれ違っても、目が合っても、顔をそむけ、無表情になる。
そのとき、音楽が鳴った。流行りのミュージシャンの歌声と、派手な電子音楽。青ざめた。だってそれは、わたしの携帯電話の設定音だったからだ。夜、バイブレーションを切ってしまったのだろうか? 皆が犯人を目で探している。中村先生もだ。気づかれないように、わたしは無関心を装った。
「誰ですか?」
中村先生は厳しい声で訊いた。教室がしんと静まり返った。誰も身じろぎをしない。わたしは心臓が暴れるのを抑えながら、わからないふりをした。
「誰ですか? 名乗り出なさい」
「後ろから聞こえなかった?」
誰かがくすくす笑いながら言った。怜佳だった。一人だけ栗色の髪で、長い睫毛を瞬かせながら、笑みを含んだ顔でこちらをちらりと振り返った。怜佳はわたしの前の席だった。中村先生が勢いよくこちらに歩いてきた。万事休すだ。
「町田さん、あなたですか?」
「……はい」
「携帯電話は学校内では電源を切るように言ってありますよね」
「すいません」
「見せなさい。どうせ学内の友人でしょう」
わたしは抵抗することなく携帯電話の画面を開いた。見られてまずいものはなかったから、平気だった。でも、内容を見て、あ、と思った。先生がわたしの手首を掴んで画面を自分に向けた。しばしの沈黙ののち、先生は手を離した。
「あとで職員室に来なさい」
そう言い残すと、先生はまた授業を再開した。怜佳の肩が震えていた。笑っているのだった。携帯電話の画面には、「早く死ね」と書いてあった。
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