5.篠原が笑う

 頭の中が真っ白になっていた。全部壊れた気がした。拓人との間に築いた何やかや。十六年かけて作り上げてきたもの。

 少女漫画の主人公のように、嬉しくてたまらないなんてことはなかった。嵐に巻き込まれて、色んなものを失った気分だった。

 ファーストキスってこんなものなんだ。大切な幼馴染みにされたら、こんな風に喪失感を抱くんだ。

 拓人は傷ついた。わたしも傷ついた。感情なんて、本当になくなればいい。恋愛感情にもみくちゃにされて、傷だらけになるなんてこと、もう起こるべきじゃない。

 わたしは唇を強く噛み締めた。目から、涙が溢れてきた。

 明日、拓人にどんな顔で会えばいいのだろう?


     *


 早朝に目が覚めた。深く眠れていないようだった。準備を済ませ、食事を取らずに制服を着た。プリーツスカートの生地がざらざらと肌をこすった。不愉快だった。

 ご飯は? と母に訊かれたけれど、いらないと答えた。父が強引に食卓に着かせようとするが、わたしは固辞した。

 ざわざわした気分のまま、外に出た。まだ暑いくらいの季節。雀が鳴いていた。このまま街に出て学校をサボろうかな、と思った。そしたら拓人に会わなくていい。

 でも、行くところがなかった。雪枝さんは仕事の日で、わたしにはもう友達がいなかったのだ。

 夏休みまで、うまくやっていた。皆で自転車やバスで遠出したり、怜佳とお揃いの服を買ったり、怜佳の家に行ったり、怜佳をうちに呼んだりした。わたしと怜佳は、本当にうまく行っていたのだ。

 怜佳はクラスの女子のリーダーで、怜佳のところにはたくさんの人がいた。わたしは怜佳の一番のお気に入りで、気が合う、とお互い思っていたのだった。

 それが、怜佳の恋人を紹介されてからおかしくなった。怜佳の恋人は近くの大学の学生で、茶髪でにやにやした、何だか好きになれないような人だった。わたしは彼のことを褒めたりしなかった。怜佳が勘違いするのがおかしいくらいに、わたしは彼に対するいい印象を抱いていなかったのだ。

 なのに、夏休みが終わったら、わたしの周りには人がいなくなっていた。チャットアプリのグループからは外された。誰も理由は教えてくれなかった。わたしはわけもわからず孤立した。

 隣のクラスの女子が、廊下を歩きながらわたしについての噂話をしていた。それによると、わたしは怜佳の恋人と浮気したのだそうだ。彼があまりにも格好良くて、奪いたくなって。でも、彼は怜佳を選んだのだそうだ。めでたしめでたし。

 馬鹿馬鹿しいと思った。もう、気にしないことにしよう、と。でも、教室という閉鎖空間ではそんなことはできなくて、わたしは怜佳たちから無視されている自分を意識せずにはいられなかった。

 この半月、ずっと喉に何かがつっかえていた。それは言葉だった。助けて、という言葉。誰にも言えなくて、わたしは黙り続けている。

「おはよう」

 声をかけられて、はっとした。気づけばわたしは校門に立っていて、隣には篠原がいた。おはよう、と返すと、篠原は微笑んだ。

 校庭では運動部が朝練をしていた。サッカー部もいるだろうし、その中には拓人もいるはずだ。わたしは急いで歩き出した。

「早いね。いつもはもっと遅いのに」

 篠原が後ろから声をかけた。わたしは振り向き、何も知らない彼の顔を見た。涙がまた溢れそうになった。慌てて前を向く。

「篠原こそ、早くない? 朝練ないでしょ、書道部は」

「あー、朝食取ろうと思って」

「え?」

「朝食。おれ、朝飯は学校で食べてるから」

 篠原は無表情に言った。何で? と訊きたかったが訊いてはいけない気がした。わたしは黙って歩き出した。

「今日は何食べるの?」

「ウインナーが挟まったパン」

「へえ、お昼より豪華だね」

「昼は購買で買うから。朝のはコンビニで買う」

 お腹がぎゅっと痛くなった。お腹を押さえて立ち止まると、篠原が心配そうにこちらを見た。

「どうした?」

「お腹、空いた……」

 朝食を取らなかったのは失敗だった。どんなに感情が荒れ狂っていても、わたしの体は食べ物を欲していたのだ。お弁当はどうにか受け取れたけれど、今食べるのはもったいない。

「篠原」

「何?」

「パン、ちょっと分けて」

 見上げると、篠原が真顔で見ていて、次の瞬間、ぶはっと破顔して大笑いした。びっくりした。篠原もこんな風に笑うんだ。

 篠原はひとしきり笑ったあと、「いいよ」と笑いの余韻の残る声で言った。

「よっぽど腹減ってるんだな。あげる。二個買ったから、一つあげるよ」

「ありがとう」

 恥ずかしい気持ちで、彼を見上げた。彼はわたしを見つめ、また笑った。からからと。

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