4.ファーストキス
はす向かいの家に住む拓人は、七時過ぎにはわが家の玄関内に立っていた。わたしはにっこり笑って迎え入れる。拓人も子供っぽく笑ってついてくる。
「お母さん、あとでお茶持ってきて」
わたしがリビングに声をかけると、母は「はいはい」と答えた。
「拓人君はコーラがいいでしょ?」
顔を見せずに母が訊く。拓人は「何でもいいよ。でもあるならコーラがいい」と答える。まるで自分の家だ。わたしたちは階段を上がった。拓人が後ろから声をかける。
「今日の漢文の課題、難しくない?」
「そうでもないよ」
わたしはいつもの調子で答える。
「おれ、数学のほうも無理そう。教えて!」
「わかったわかった」
わたしたちは同じクラスなので同じ課題が多い。拓人は別に成績が悪くはないのだが、こんな風にすぐに人に頼る。要領よくノートを写させてもらったり、教えてもらったりしながら、うまく成績を平均くらいに保っている。
部屋に入ると、彼は勝手知ったる様子でわたしのローテーブルの前にあぐらをかいた。それからぐるりと周りを見渡し、「本ばっか」と言った。本ばっかりなのはわかりきったことだ。雪枝さんほどでもないが、わたしは小説や漫画が好きで、たくさん買い集めている。雪枝さんと知り合ってからは興味の幅が広がったから、余計増えた。大きな本棚が一つに、文庫用の小さな本棚が一つ。何とか押し入れやクローゼットに押し込んだり処分したりしながら、本が溢れないように気をつけている。
「漢文はー?」
わたしが訊くと、拓人は「そうだった」と体を机に向けた。持ってきたバッグを開き、ノートと教科書、問題集、プリント、辞書、と次々に出し、わたしの大して広くないローテーブルの上を埋めていった。わたしも向かい側に座り、自分のプリントをテーブルに置いた。
「古典の中村先生さあ」
漢詩の書き下しの作業が始まって一分で、拓人は独り言めかした声で言った。
「怖くない?」
「集中!」
彼が目を合わせようとこちらを見ているのはわかっているので、顔を上げずにそう言った。彼は渋々プリントに戻って、つまらなそうな顔で書き下していく。
彼がわたしと話したくて今ここに来ているということはよくわかっている。でも、わたしだって明日の授業の答え合わせで当てられるかもしれないし、構っていられない。それでも何故わたしは彼の要求を断らないのか? はっきりとはわからないけれど、わたしにとって彼は特別だから、断れないのだと思う。小さいころから積み重ねてきた、彼に対する愛着や親しみや何やかや。そういうものが、わたしと彼の関係を切っても切れないものにしている。
下のほうから「ただいま」という低い声が聞こえ、母が玄関に出ていく気配がした。しばらく階下の二人が話したあと、階段を上がってくる音が聞こえた。ドアがノックされ、返事を待たずに開く。
「ただいま、歌子」
父だった。わたしは仏頂面で「おかえり」と返す。
「拓人が来てたんだな。どうだ、課題は進んでるか?」
拓人はにこにこ笑って「おかえり、おじさん」と返す。
「歌子、ぜんっぜん構ってくれないんだけど」
「そうかそうか。歌子、拓人は適当にあしらえ。お前の成績のほうが重要だ」
父の対応に、拓人は声を上げて笑う。わたしも少しおかしい気分で、お腹をくすぐられたような感覚になる。
母が来て、わたしと拓人に飲み物を渡した。「ありがと」と言うと、母は嬉しそうに笑った。それから両親は階下に降りた。わたしと拓人は無言でプリントと睨み合う。「答え合わせしよ」と拓人が言うので、渋りながら応じた。
大体のところは同じだったので、違うところだけお互いの合っていそうな部分を写し合った。「おっしゃ完璧」と拓人が言うので、わたしは笑ってしまった。
「わたしの答えなんて、合ってるかどうかわかんないよ」
拓人はにっと笑った。
「何言ってんの。おれは歌子を信頼してるし」
「どうも」
わたしが笑うと、拓人も目を細めた。
数学の課題が難問だった。一向に解けない関数の問題を、二人でうなりながら解いていく。どうしても解けない問題があった。拓人も解けていないので、わたしは思わずつぶやいた。
「篠原に教えてもらおう」
その瞬間、空気が凍った気がした。拓人がわたしをじっと真顔で見つめている。「何?」と訊くと、「別に」と言う。そのくせ、もの言いたげにこちらを見続ける。
「何ってば。言ってよ」
わたしが苛立つと、拓人はプリントを見つめた。乱雑な子供っぽい拓人の字が、小さく整然と並んでいる。
「歌子は篠原みたいな、頭がよくて、字がきれいな男がいいわけ?」
顔を上げたと思ったら、いきなり質問をされた。わたしは戸惑う。
「背が高くて、大人っぽい男がいいわけ?」
「何言ってるの?」
「歌子は何で篠原と一緒にいるの? あいつ堅物だし、仏頂面だし、クラス委員だから皆それなりに尊重しているけど、心開かないし……そんなにすごい奴じゃないじゃん」
心がもやもやした。どうしてわたしが篠原と昼食を取るくらいで篠原が悪く言われなければならないのか。
「篠原、いい奴だよ。皆、怜佳の言うことを信じた。わたしの周りにいた人たちは、あっという間にいなくなった。篠原だけだよ。わたしがどうであろうと気にしないのは」
「おれは?」
拓人が怒り交じりの声を上げた。身を乗り出し、テーブルに手をつく。
「おれ、歌子のこと信じてるよ。怜佳の彼氏なんて、歌子が取ろうとするなんて全然思えないし。信じてるよ。篠原じゃなくて、おれが」
わたしは後ずさった。拓人はわたしの反応を見て、傷ついた顔をした。
「一番頼ってもらえると思ったのに、頼ってくれないし」
小さな声で、ささやく。
「おれって歌子の何なのかなあ」
「幼馴染み」
わたしの言葉に、拓人はますます傷ついた顔をした。
「幼馴染みだよ。大切な。でも、わたしは拓人とは別個の人間で、何でもかんでも頼れないよ」
拓人はしばらくうなだれていた。それから、自分の課題や教科書をバッグに詰め始めた。帰るつもりのようだった。のろのろと立ち上がり、わたしの横を通り過ぎようとする。
「ごめんね」
わたしが言うと、拓人はバッグを落とした。そしてしゃがんでわたしの肩を掴んだ。拓人の大きな目が洞穴のように見えた。彼はそのまま、わたしの唇にキスをした。
突き放せなかった。彼が体を離すまで、動けなかった。拓人は泣きそうな目でわたしを見つめ、バッグを拾い上げると部屋から駆け出していった。
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