3.恋愛感情なんて、この世から消えればいい。
「雪枝さーん、いる?」
茶色いアパートの一階には、紺色のおしゃれな自転車が置いてあった。だから二階に住む雪枝さんは確実にいると思う。わたしは図々しいかもしれないという遠慮を雪枝さんに会いたいという気持ちに押さえつけられ、この部屋のドアの前に立っていた。ドアはすぐに開いた。雪枝さんは化粧っ気のない顔に人懐っこい笑みを浮かべて「歌子。来たね」と言った。手招きされるままに中に入る。雪枝さんのささやかな部屋は本棚とカラーボックスでいっぱいだ。いつものごとく圧倒されながらも雪枝さんの寝室兼居間に足を踏み入れた。
「今日は、何してたの?」
雪枝さんは部屋着だった。眼鏡もかけている。完全にオフモードだ。
「久生十蘭読んでた」
わたしのためにお茶の準備をしながら、雪枝さんはキッチンから顔を出した。いいものを読んでいる、という顔だった。興味を惹かれ、彼女の定位置である背の低い木製のテーブルにある文庫本を手に取った。
「ひさ……、何て読むんだっけ?」
「ひさおじゅうらん。戦前から書いてた作家。文章が論理的でスタイリッシュで、すっごく好み。女傑ものは特にいい。『花賊魚』って短編では泣かされたー」
雪枝さんは泣き真似をした。わたしはくすりと笑ってぱらぱら本をめくった。漢字が難しくて、わたしはまだ読めそうにないけれど、面白そうだ。
「お店はいつまで休めるの?」
わたしが訊くと、雪枝さんは寂しそうに「今日まで」と答えた。
「連休だったの。三連休。それが今日で終わり。もっと本を読みたかったな」
雪枝さんは大型書店の店員で、文庫本コーナーを任されている。本を読んでばかりで、完全に本の虫だ。小説ばかりではなく漫画のヘビーな読者でもあるから、雪枝さんはわたしに色々な作品を教えてくれる。
「あ、この間いい本を読んでね、歌子が好きそうだなって思った」
「何なに?」
雪枝さんは湯気の立った梅昆布茶を手に持って現れ、テーブルにとん、と置いた。それからわたしが湯飲みを口につけている間に本棚の上のブックエンドから一冊の本を取り出した。真っ青で、かわいいデザインの文庫本。
「双子の女の子がタップダンスをする話。かわいくてノスタルジックで、いいよ」
「へえ」
裏表紙のあらすじを読んだら、とても好みだった。雪枝さんが貸してくれると言うので、ありがたく借りることにする。
「……ね、何かあった?」
雪枝さんはわたしの瞳を覗き込んだ。わたしは頭の中がかっと熱を帯びるのを感じた。それを察知したらしく、彼女はわたしをリラックスさせるためににっこり笑った。
「いいよ、言ってくれて。遠慮することない」
わたしは、黙ったまま固まっていた。言えない。半月の間、言えなかったのだ。言葉が出てこない。
「言えないなら、それでいい。でもいつでも言ってくれていいから」
雪枝さんは、優しい。書店で小説や漫画を買いに来るだけのわたしに話しかけてくれて、本を貸そうと部屋に招待してくれて、今はわたしの中に引っかかっている物事を気にしてくれている。
「……あ」
声が突っかかりながら出てきた。雪枝さんは自分の緑茶を飲みながら、うなずいて笑っていた。
「あのね、が、学校で……」
言葉が、そこから出てこなくなった。言えない。やっぱり言えないんだ。わたしは絶望的な気分でひざの上の自分の手を見つめていた。強く握りしめられた、弱々しいほどに細い指。
雪枝さんはわたしを辛抱強く待ち、それでも何も出てこないとわかると、キッチンに戻って小さなもなかを持ってきてくれた。わたしは和菓子が好きで、雪枝さんはそれを把握していた。
「ま、とりあえずこれ食べて。漫画でも読んでいきなよ」
わたしはうなずいた。そして、わたしの喉に詰まったまま出てこない言葉を、恨めしく思った。
*
家は学校からも雪枝さんのアパートからも近く、商店街を抜けて細い路地を行けば住宅街にあるわが家に着く。わたしの世界は基本的に小さい。たまに街に自転車で行って帰ることはある。でも、一人だと出不精になってしまう。夏休みまでは友達とよく出歩いていたけれど。
柵に囲われ、よく手入れされた花壇と芝生の庭に、クリーム色の壁の家が建っている。わたしはその玄関ドアを、のろのろと開いた。「ただいま」と言うと、真っ直ぐに続く廊下の向こうのリビングダイニングから母の「おかえり」が返ってくる。わたしが靴を脱ぐ間に母は大急ぎで用事を済ませ、廊下に飛び出してくる。
「遅かったのね。どこかに寄ったの?」
「うん、友達の家」
母が想定するわたしの友達は、おそらく別のイメージだ。けれどそれは無視して、わたしは着替えるために自室のある二階に向かおうと階段に足をかける。
「怜佳ちゃん、元気? 最近あまり見かけないけど」
胸の内が激しくざわめいた。苛立ちが抑えられない。それでも声は荒らげない。落ち着きすぎているくらいのトーンで、答える。
「うん、元気だよ」
母が、そう、と微笑んだ、わたしはわめいて暴れたい気分だった。我慢をして、体に悪いと思うくらい表面を平静に保ち、無表情に階段を上がった。
部屋に着くと、水色の清潔なシーツで包まれたベッドに伏せた。疲れた。今日も。それから携帯電話を見た。拓人からのメッセージが届いていた。
「今日の課題、一緒にやらない? 夕食のあと、歌子ん家行っていい?」
ぼんやりと文面を見る。ああ、面倒くさい。恋愛感情なんて、この世から消えればいい。それどころか憎しみも悲しみも喜びも苦しみも、感情という感情が全て地上から姿を消せば、この嵐のような十六歳の秋を乗り越えられるだろう。
わたしは携帯電話を握りなおした。そして、一言「いいよ」とメッセージを返した。
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