2.理解不能の感情

 部活が始まりそうだというのに、廊下側の一番後ろの拓人は今日提出の課題をやっていなかったらしく、必死の形相で机に向かっていた。彼の元には男女の友人が何人もやってきて、そんな彼をからかっては去っていく。彼は「うるせえなあ」と口を尖らせながら彼らを追い払う。女の子の何人かは、彼と少しでも話したいがために近づいて「頑張ってね」と声をかける。彼は愛想よく、「ありがと」と笑う。女の子たちは頬を染めて満足げにめいめいの場所に戻る。

 彼は人気者だ。明るいし、元気だし、甘え上手だからだ。女の子たちにとっては彼の容姿もいいと思う理由のようだ。天然の巻き毛である彼は、男の子の中では長めの髪をしている。黒髪だけど、絵の中の天使のような髪型に見える。それに、顔がすこぶる整っている。大きな丸い目に、外国人のように尖った鼻。歯並びのいい口許は何をしていても笑っているように見える。

 彼が幼馴染みだということは、とても羨ましいことのようだ。女の子たちからはよく、いいな、と言われた。つき合ってるの? と訊かれ、否定したこともある。小さいころから一緒だからといって、恋人になるかなんてわからない。そう説明しても、でも羨ましいよ、とだけ返ってきた。

「じゃあ、頑張って」

 わたしが声をかけて後ろを通りすぎようとすると、拓人は勢いよく振り向いて、「待って待って」と立ち上がった。それから皆に見られているのも気にせず、教室を出るわたしについてきた。

 廊下に出ると、彼は体を縮こめて手を合わせ、「さっきはごめん」と小さな声で言った。いいよ、とわたしは笑う。彼は反省しきりの様子で続ける。

「正直、篠原の言うとおりだったからさ。歌子がこんな状況なのに突っ走っちゃって、ホントごめん。あれから何も言われなかった?」

「何も。大丈夫だよ。拓人が気にすることないよ」

 わたしは笑ってみせた。拓人は申し訳なさそうな表情は崩さないまま、わたしをじっと見る。でもさ、と少しトーンの下がった声を出す。

「何で篠原? 他にも一緒に弁当食べてくれるやついるだろ?」

 少し考える。それから拓人をまともに見て、

「篠原は教室で一番噂とか気にしない人だと思うから」

 と答える。拓人は唇を尖らせ、

「おれたちと一緒に食べればいいのに」

 と不満そうに言う。わたしは、それは嫌だな、と思う。拓人は人気者だ。一緒に昼休みを過ごしたい生徒はたくさんいるのだ。サッカー部の仲間と食事を共にすることが多い拓人は、いつもがやがやとした喧騒に包まれている。今、わたしはもう少し静かに過ごしたい。人間関係の猥雑さから逃れた場所にいたいのだ。

「篠原は勉強教えてくれるし、静かだから落ち着いてご飯食べられるもん」

 拓人は思いきり不満そうな顔をした。わたしはそれに気づかないふりをして、宿題あるでしょ? 頑張ってね、と言って手を振って歩き出した。拓人がわたしを後ろから見つめているのがわかる。でも、振り向くことはしない。

 下駄箱のある昇降口に向かっていると、階段を降りてきた篠原とばったり会った。彼はわたしを見て少し笑った。

「帰るの?」

「うん。篠原は職員室に行ってたの?」

 わたしも笑って訊いた。彼はうなずき、

「皆の課題を持ってったとこ」

 と答えた。あちゃあ、とわたしが頭に手を当てていると、篠原が不思議そうな顔をした。

「拓人、課題間に合わなかったよ」

 篠原が唇を結んだ。わたしのほうをまっすぐ見て、質問したそうな顔をした。わたしはきょとんとした顔になった。

「何?」

「結局さ、町田はあいつのことどう思ってるの?」

「あいつ?」

「浅井」

 浅井は拓人の苗字だ。わたしは何だか疲れた気分で篠原を見る。真剣な顔をしているから、誤魔化したらあとに引くだろう。

「拓人はかわいいと思ってる。でも、単なる幼馴染みだよ」

 彼は困った顔をした。よくわかっていないようだった。わたしと拓人の関係は、確かに普通の友人関係からは逸脱したものがあるからだ。

「誰が何と言おうと、彼氏ではありません」

 わたしがおどけると、篠原はうろたえた。うろたえる篠原は珍しい。

「ごめん、彼氏じゃないのはわかってるんだけど」

「じゃあ何で訊いたの?」

 わたしは首をかしげる。皆そこを気にするのだ。だから決まった通りに答えたのだ。なのに篠原の態度は解せない。

「彼氏かどうかは関係なく、浅井は町田にとって重要な存在なんだろうなって思うから。それを知りたかっただけだよ。ごめん」

 重要な存在。確かにそうだ。拓人はわたしの人生の一部。決して切り離すことのできない存在だ。でも、それは篠原には関係のないことだ。彼はわたしの恋人ではない。

 だから、一緒にお弁当を食べてくれる彼に感謝はしても、全てをぶちまけたりはしないのだ。


     *


 この間、十六歳になった。十六歳というのは思春期で、恋に恋する年齢で、頭の中は好きな相手のことでいっぱいなのだと思っていた。わたしは少女漫画が好きで、一般文芸のライトな読者でもあるから、恋愛ものはたくさん読んできた。それらの作品の多くは、恋をする少年少女をたくさん描いていた。だから自分もそうなるだろうなと漠然と思っていたのだ。

 拓人はわたしのことが好きなのだろうか。篠原は? 多分そうなのだろうと思うのだが、恋愛感情というものを理解できないわたしには彼らの態度やわたしに向ける視線に確信が持てない。持てたとしても、困る。わたしはそこから踏み出すことができない。彼らの求める態度を示せない。

 わたしは、恋ができない。できないと思う。一生人を好きになることはない気がする。だから、今日のような日は煩わしい気分になる。

 全学年の下駄箱が整然と並んだ昇降口に着き、ため息をつく。同時に、携帯電話がバイブレーションで短く鳴った。父か母か、雪枝さんだ。わたしにメッセージを送ってくれる人なんて、今となっては拓人を除けばそれくらい。黒い革のローファーをタイル張りの床に置き、何の気なしに開いた。

「死ね、ブス」

 差出人不明のメッセージに一言、そう書いてあった。呼吸が荒くなり、指先が少し震えた。それでも素早くブロックして、これでもう来ない、と思ったけれど、そんなはずはなかった。この手のメッセージは二通目だった。

 白い天井を見上げ、呼吸を整えてから靴を履いた。それから全てを振り払うように大袈裟に歩き出した。

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