蜂蜜製造機弐号【改訂版】
酒田青
16歳。初めて恋をした。
1.篠原と拓人
彼のことを好きになってよかった、と思うのだ。だって、こんなにもわくわくして、満たされて、明日が楽しみで仕方がない。わたしは十六年も生きてきて、こんな気持ちになったことがなかった。こんな風に、身軽さを失っていた体がふわふわと軽くなり、川のせせらぎや鳥のさえずりをじっくりと聞く気分になり、自分自身に価値を感じられる、そんな気持ちに。
今まで、ただ生きていた。死ぬ理由がないから。両親や社会が生かしてくれていたから。
でも、これからはきっと、死にたくないと思うし、一日でも長く生きていたいと思うだろう。彼がずっとそばにいてくれるなら、という条件つきで。
恋愛はそう単純じゃない。苦くてとても飲み干せそうにない感情だって起こるんだ。そんなしかめつらしい言葉だって、関係ない、とくずかごに放り捨ててしまえる。
だって、わたしは「今」幸せで、「今」からの未来に夢を見ているのだから。彼がそうさせてくれた。両思い、という甘い響き。わたしも彼も言葉にしていないけれど、つまりはそういうことなのだ。
好きなだけ彼を好きだと言っていいんだ。好きなだけ抱き締めていいんだ。そんな単純な事実に、わたしは浮き足だって眠れそうにない。
明日、また「好き」と言いたい。抱き締めて、明日もわたしを好きでいてくれるように予約を入れたい。人生で一番愚かになった気分だ。同時に、誰よりも真実に近いところにいる気もする。恋を知ったのだ。昨日いたところより、ぐんと、遠くに来た。
彼がいる。明日も、明後日も、わたしのことが好きな状態で。そう思うだけで、涙が出る。
始まりは、いつだったのだろう。鮮明に思い出せるのは、十六歳になったばかりの秋のことだ。
*
「ねえ、篠原。わたしといて楽しい?」
気づけば低く暗い声が出ていて驚いた。わたしは平気だったはずだ。この状況が始まって半月。二学期が始まってこのことに気づいたとき、「あーあ、馬鹿馬鹿しい」くらいにしか思っていなかったはず。なのにお弁当をつつく手が止まってため息をつき、思わず篠原にこんなおかしなことを質問している。
目の前の篠原は切れ長の目を丸くして驚いた顔をする、というわけでもなく、一口ジャムパンを頬張り、わたしをじっと見つめている。沈黙に耐えきれず、ねえ、と返事を催促すると、彼はやっと咀嚼をやめてこう言った。
「楽しいけど」
「本当?」
心臓に花が咲いたみたいな、おめでたい鼓動の響きが伝わってきた。篠原は短めの黒髪に指を差し入れ、ぽり、と掻くと、真顔で続けた。
「町田は、面白いよ」
何それ、と頬を膨らませると、篠原はかすかに笑みを作った。滅多に見られない篠原スマイルだ。篠原は笑うと優しくてかわいい顔になるのだ。普段は大人びていて基本的に無表情だから、笑ったときはとても嬉しくなる。
「篠原ってさあ、謎めいてるよね」
「いきなりだな」
篠原はまた真顔に戻った。わたしは構わず続ける。
「塾入ってないのに一年で一番成績いいし、運動神経いいのに書道部だし、書道部なだけあって字のうまさが超高校級だし。実は完璧超人じゃないの?」
「完璧超人って……」
篠原は呆れたようにパンを頬張った。
「顔もさ、かっこいいと思うよ。モテるんじゃない?」
わたしの何気ない一言に、篠原は体を強張らせる。どうしたんだろうと思ったら、彼の顔が真っ赤になる。耳まで。うつむき、大きなてのひらで顔を隠すようにしてつぶやく。
「からかうなよ……。どこがだよ」
だって、本当にそう思うのだ。目はナイフで彫ってできたかのように鋭くて、鼻も高くて、唇も凹凸がきちんとあってきゅっと結ばれていて意思が強そうだ。睫毛だって長いし、首も長くて喉仏がシャツの襟に隠れていないし、手はごつごつして大きいから、女の子の多くは篠原の容姿をいいと思うはずなのだ。篠原がモテない理由があるとしたらそれは彼が書道部であることやブレザーの制服を着崩さないことや、クラス委員長であることくらいだ。あと、無口であること。女子はそういうものを敬遠する。
そういうことを言わずに黙って篠原を見ていると、彼の顔色も元に戻ってまた静かにパンを食べ始め、昼食は沈黙で終わりそうだった。わたしのお弁当はタコ型ウインナーと卵焼きとプチトマトでカラフルだ。対して篠原はいつも購買部のパン。ジャムパンとコーヒーマーブルデニッシュとチーズ蒸しパンのローテーション。この半月でそれがよくわかった。
わたしは篠原がいるこの窓際の席に近くの机を寄せ、ご飯を食べていた。教室は空調で涼しく保たれ、三十二人という大勢の人間が閉じ込められていても健康を害さず過ごせるようにしてある。でも、息苦しい。わたしは、この場所にいると呼吸がうまくできなくなる。
「町田のほうがさ」
不意に篠原が声を出した。遠慮がちな小さな声だ。
「モテるんじゃないの。かわいいから」
すぐに視線を校庭にスライドさせる辺り、気まずい質問らしい。わたしは笑った。
「そんなことないよ。でも、ありがと」
篠原はわたしを真っ直ぐに見つめた。言われ慣れてるんだろうなあ、とつぶやくのが聞こえてきた。そんなことはない、というのは本当なのだ。わたしは、魅力的ではない人間だから。
「なあ」
突然、上から声が降ってきた。篠原ではない、少し高くてかすれ気味の、男の子の声。見上げると、拓人がいた。わたしの幼馴染みの。長めの前髪で半分隠れた大きな目を、敵意丸出しにしていた。
「歌子は篠原のこと好きなの?」
その質問はわたしに向けられているのに、彼の敵意は篠原に向かっていた。篠原も無表情に彼を見つめ、敵意の応酬のようになった。こういうことになる意味がわからない。拓人がわたしを大事にしてくれているのはわかっているが、彼はわたしの恋人ではないし、篠原だってそうだ。
第一拓人の声が教室中に響いていたらしく、怜佳たちのような派手な女の子のグループや、運動部の騒がしい男の子たち、村田さんや立花さんのような冷静なクラスメイトまでこちらをじっと見ている。わたしは口を開いた。
「どっちも、好きだよ」
怜佳たちがプッと吹き出したのがわかった。男子たちは「おおー」とどよめく。篠原は真顔で、拓人は唇を引き結んで、わたしの言葉を真剣に聞いている。
「でも、どっちも友達として、だよ」
拓人ががっかりしているのがわかった。肩を落とし、ため息をつく。篠原は、どういう気持ちなんだろう。わからないまま、わたしは二人から逃げた。自分の席に戻って、次の英語の授業のために単語テストの勉強でもしようと思った。
「あ、歌子」
拓人がわたしの腕を掴もうとしたのを、篠原が立ち上がって制止した。見上げるような高さの篠原に拓人が圧倒されるかと思ったら、拓人はそれとは逆に彼をにらみつけた。真顔のままの篠原はこう言った。
「この状況で、よくやるよ」
わたしは自分の席に戻りながら、篠原の一言に感謝した。「この状況」。確かに、この状況はわたしにとって過酷なものだ。それを荒立ててはいけないのだ。篠原はそれをよくわかっている。
怜佳たちがひそひそと話をしていた。時々わたしを見て汚らわしそうに顔をしかめた。汚らわしくなんかない。それはよく自分がわかっているのに、わたしはたまに、本当に自分が汚らわしくないか疑ってしまうのだ。
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