最終章 希望の残滓

世界は色を失った。


 心から大切だと思っていたものが突然奪われて——世界は色を失った。

 もしもこの悲劇が悪い夢なら、早く覚めてくれと願う。


 久しぶりの実家。高校三年生の三月から、ほとんど何も変わっていない自分の部屋で。砂生さそう彩楓あやかは一人、涙に濡れていた。


 幸せだったはずの、親友の結婚式。

 純白のドレスに包まれた美緑みのりはとても綺麗で、いつか自分も着てみたいと思った。誰もが笑顔を浮かべ、美緑たちを祝福していた。

 そこには、希望しかなかった。


 しかし披露宴で——悲劇は起きてしまった。

 彩楓の元恋人である大地だいちが突然倒れ、病院に搬送された。


 当然、会場には動揺が広がった。終盤に差し掛かっていた披露宴は、少し時間を早めて閉会となった。


 彩楓は呆然と、魂が抜けたみたいになりながらも帰宅した。

 その後、新郎であり、大地の友人である黒滝くろたき優弥ゆうやから、彼の容態を聞いた。


 呼吸はしているが、意識がない。

 いつ心臓が止まってもおかしくない、非常に危険な状態だという。


 原因は不明。優弥ははっきりとそう告げたが、何か隠しているような気がした。というのは、さすがに彩楓の考えすぎかもしれないけど。


 どうして、大地が……。

 ゆっくり、呼吸を整えてみても、背中の震えは収まらない。


 絶望だとか哀惜だとか憤怒だとか、そういった負の感情がぐちゃぐちゃに絡まり合って、真っ黒な塊となる。それは彩楓の心に重くのしかかり、彼女を失意の海に沈める。深く、もう二度と浮き上がることのできないくらいに。


 彩楓が大地と付き合っていたとき、彼はたまに遠くを見るような目をしていた。

 自分がいつか、こうなることを知っていたかのように。


 ふとしたときに見せる、世界の何もかもを見限ったような表情。彼の見ている景色が、彩楓にはわからなくて。理解できなくて。隣にいながら、とても哀しい気持ちになった。


 大地と付き合っていたのは高校時代の話で、四年も前に別れを告げられている。

 今となってはただの他人なのだけれど。

 それでも——どうしようもなく悔しかった。

 心で感じる痛みが、涙となってこぼれ落ちる。




 どれくらいの時間、彩楓は泣いていただろうか。その声は不意に聴こえた。

 ——彩楓。

 脳に直接響くような声だった。空耳にしては、はっきりとした発音で。


「誰?」

 膝にうずめた顔を上げて、彩楓は当たりを見回す。


 ——わたしよ。

 ミニテーブルの上に視線をやると、ここにはいないはずのハムスターがいた。仕事先の近くに借りている家に置いてきたはずだったが……。


「……クロ?」

 何が何だかわからなかった。あまりのショックで、幻覚が見えているのだろうか。

 彼女は、いつもの愛くるしい様子とは異なり、神聖な雰囲気を纏っていた。


 ——そう。彩楓がつけてくれた名前で表現するなら、わたしはクロ。この名前、結構気に入ってるのよ。さて。今からちょっと不思議な話をするから、できるだけ驚かないで聞いて。

 鈴が鳴るような、優しくて高い声でクロは話し出した。


 神様の存在。大地の時を巻き戻す力。その副作用。そして、時を巻き戻す前の世界での出来事。


 次から次へと、彩楓の理解の範疇を超えた話が飛び出してくる。驚かないで聞いて、なんて言われても到底無理だ。


 信じられないような話だったが、実際に彩楓がクロとの会話を体験していることが、神様が存在することの何よりの証拠だった。


 ——っていうのが、今起きていることのそもそもの原因。

 彩楓が聞いた話に矛盾はない。信じられるかどうかは別として、つじつまが合っている。


 クロの話をまとめると、こういうことになる。

 大地は自分の妻だった美緑の命を救うため、十一年前の過去へ戻った。しかし、力の副作用で五十五年分の寿命が削られていて、そのせいで今、彼は意識不明となっている。


 と、いうことは……。

 大地が好きな〝手の届かない人〟とは美緑のことで、彼女のために、寿命の少ない自分自身ではなく、黒滝優弥をパートナーとして選ばせたことになる。


 大地の達観した言動や、遠くを見る目。それらも、クロの話と合致する。信じられなくとも、納得せざるを得ないくらいに。


 そして彩楓は、大地の選んだ道の崇高さに愕然とした。


 時間も命も、そして自分自身の幸せさえも犠牲にして、愛する人の幸せだけを、ただそれだけを純粋に願って——。

 そんな選択をした彼に、恐れさえ抱いた。


 ——ところで、彩楓がわたしを見つけてくれた日のこと、覚えてる?

「うん」


 駅前のペットショップで、彩楓はクロと出会った。愛らしい視線に射抜かれて、彩楓はクロを飼うことになった。


 ——きっと、運命だったんだと思う。

「どういうこと?」


 ——わたしなら、平賀ひらが大地を救うことができる。

「大地を?」


 ——うん。自分で言うのもちょっと恥ずかしいんだけど、わたしは神様として、それなりに力を持ってる。彼が、力の副作用で失った寿命を戻すことができるの。

「それって……」


 ——そう。今、平賀大地の寿命はおそらく、終わりを迎える直前。わたしが彼の寿命を戻せば、彼は助かる。普通ならこんなことはしないんだけどね。でも、こうしてワタシと彩楓が出会ったのも、きっと意味があるんだって思って。


「でも、神様が恩返しするのは、人間に助けられたときだけじゃないの?」

 先ほどの話で大地は、黒猫の姿をした神様を救い、その恩返しとして時を戻す力を授けられている。


 ——彩楓なら、わたしのことを助けてくれてるじゃない。

「え?」


 ——いつもご飯をくれるし、ケージの中を掃除してくれる。たまにしつこいくらいもふもふしてくるのは、ちょっといただけないけれど。

「クロ……」


 ——そんなちっちゃいことでいいの。わたしは、彩楓のことが好きだから、彩楓にこれ以上悲しんでほしくないから、できることをしようとしてるだけ。そういう心の動きは、人間も神も変わらないの。


 クロのその台詞には、不思議と説得力があった。

 都合が良すぎるような気もするけれど、案外この世界はそういう風にできているのかも、なんてことを思う。


 もしくは、最初からこうなることをわかっていて、クロは彩楓の前に姿を現したのかもしれない。神様ならばそうであってもおかしくはない。


「お願い。クロ。大地は私の大切な人なの」

 幻覚かもしれないという疑いは最後まで捨てきれなかったが、大地を救えるのなら、その申し出を断る理由はなかった。


 ——うん。明日の朝には、きっと彼は目覚めてる。

 クロはそう言うと、突然その場から消えてしまった。彩楓がまばたきをした一瞬の出来事だった。




 翌日、彩楓は深く眠れないまま朝を迎える。

 布団に入ったままボーッとしていると、美緑から電話がかかってきた。

 思わず正座をして応答する。


「もしもし。みの——」

〈彩楓ぁ! 平賀くん、助かったって!〉

 泣きながら、ほとんど叫ぶようにして話す美緑に、彩楓は思わずスマホを耳から遠ざける。


 電話越しに、黒滝優弥の〈うるせぇな。いい加減泣き止めよ〉という声も聞こえる。彼のその声音からも安堵の気配がうかがえた。


 彩楓の頬を、一筋の透明な涙が流れて。


〈彩楓? おーい!〉

「……うん。ごめん。ちょっと、力が抜けちゃって……」

 昨日の出来事は、夢ではなかったのだ。


「ありがとう。クロ……」

 小さく呟く。

 なんとなく、クロとはもう二度と会えないような気がした。

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