1-6 彼女がいない世界なんて、俺にとっては何の意味もないのだから。
俺が美緑の死の詳細を知ったのは、彼女が死んだ日の翌日のことだった。受け入れがたい現実をどうにか受け止めた俺は、病院の一室でより詳しい話を聞いていた。
医師の話によると、脳の血管の一部が細くなっていたらしい。そのせいで詰まった血管が破裂し、彼女は死んだという。
いつ死んでもおかしくない状態だった。
美緑の脳を検査した画像をモニターに表示させて、医師はそう説明した。
「最近、美緑さんが頭を強く打ったというようなことはありましたか?」
「いえ。自分が知る限りでは、ないと思います」
自分でも驚くほど空っぽの声だった。
「でしょうね」
医師はうなずいた。
「と、言いますと?」
俺は先を促す。
「おそらく、危険な状態になっていたのは、かなり昔からだったと思うんですよ。今まで倒れなかったことが、むしろ奇跡みたいなものです」
医師は、美緑を死に至らしめた血管の収縮を、そう評した。
「ああ、この日ですね」
カルテを見ながら続ける。
「この日に美緑さんは、頭を強く打って検査を受けています。当時は異常なしとなっていますが、このときにはすでに血管の収縮は始まっていたのでしょう」
「彼女が頭を打って検査を受けたという、その具体的な日付を、聞いてもいいでしょうか」
俺は医師から見せられた数字を、心にしっかりと刻み付けた。
思えば、このときにはすでに、覚悟が芽生え始めていたのかもしれない。
その日付には心当たりがあった。今から十一年前、俺たちが中学三年生のときだ。
体育の時間。体育祭を間近に控えていたため、授業の内容も、大半がその練習だった。比較的華奢な美緑は、女子全員が出場する騎馬戦で上に乗る役になっていた。その日の練習で、彼女は落ち、頭を打った。
男子も隣で組体操の練習をしていて、そのときの騒ぎは覚えている。体育科の新任の教師がパニックになっていたことまで含めて。
その頃にはもう、俺は彼女が気になっていて、日常的に美緑のことを目で追っていた。その日は、朝から少し体調が悪そうだな、とは思っていた。
あのとき、無理やりにでも彼女が体育の授業に出ることを止めておけば、彼女は助かったのだ……。後悔だけが募る。
頭を打った美緑は一瞬意識が飛んだものの、すぐに起き上がった。痛みは感じていたようだが、普通に歩けていたし、血も出ていなかった。
念のため早退して病院で検査をする、というところまでが、俺が知っていたあの日の出来事だ。そしてその検査で、異常なしという結果になったという。
医療技術は日々進歩している。逆に言えば、十年も前の技術は今に比べて拙いということになる。だからといって、仕方がないと思えるほど俺はできた大人ではない。
あのとき、検査をして異常なしの判断を下した人間が許せない。けれど、そいつを責めても美緑が戻ってくるわけではない。
美緑の親戚が葬式の後片付けをしている中、俺は一人で外に出る。
営業職らしきサラリーマンが、イヤホンで音楽を聴きながらきびきびと歩いている。同じ制服を着た高校生の集団が、楽しそうに笑いながら通り過ぎて行く。
世界はこんなにもいつも通りなのに、美緑はもういない。
その事実だけが重く肩にのしかかってきて、とっくに枯れたと思っていた涙が、頬を一筋流れた。すると、
通りから見えない場所に移動する。
あのとき、勇気を出して体調が悪そうな美緑に声をかけていれば……。
どれだけ過去を悔やんだところで、美緑はもう戻ってこない。
ならば――過去を変えるしかない。
美緑の死は、俺の人生にとってエラーだった。だが幸い、書き換える部分はわかっている。十一年前の、昼休みだ。
数日前に戻って、美緑に検査を受けさせることも考えた。しかし、医師の言っていたことが気になった。
いつ死んでもおかしくない。
今まで倒れなかったことが、むしろ奇跡みたいなもの。
仮に改めて検査をして、脳に異常が見つかったとする。当然手術をすることになるだろう。だが果たして、その手術は成功するのだろうか。失敗する危険性だってある。
力を使って戻っている間は、そこからさらに力を使うことはできなくなる。
黒猫の姿をした神様は、そう言っていた。
つまり、巻き戻した世界で美緑が死んでしまったら再び戻ることはできないし、美緑が死ぬたびに力を使っていてはきりがない。
では、いつまで戻れば美緑の生存は確実になるのだろうか。そんなこと、俺にはもちろん、医師にもわからないだろう。
それならば最初から、死に至った原因そのもの――十一年前のあの日の出来事をやり直すしかない。
そして俺は、力を使うことを決めた。
一度使ってしまったら、後には退けない。
十一年前へ戻って、もう一度――。
もう一度、築き上げよう。美緑の幸せを。
力の副作用は、戻す時間の五倍。十一年の五倍で、五十五年。
俺の人生の大半を犠牲にしてでも、美緑の生きている世界を取り戻す。
彼女がいない世界なんて、俺にとっては何の意味もないのだから。
――本当にいいのか?
脳内に語りかけてくる声。男とも女ともつかない、それでいて独特の魅力を感じる。足元に視線を落とすと、黒猫がいた。
「ああ、お前か。久しぶりだな」
涙を拭って、俺はしゃがみ込む。
――およそ十年ぶりか。まあ、神にとっては一瞬だがな。
「俺も今日は黒だ。お揃いだな」
喪服は、それ自体も重いが、なにより着る人間の心を重くさせる。
――うむ。
黒猫の返事は、固い声色だった。
きっとこの小さな神様は、俺の身に起きたことをわかっていて現れたのだろう。それと、俺がしようとしていることも。
「一番大事な人がいなくなっちゃってさ。もしこの力がなかったら、たぶん後を追って死んでたと思う」
――そうか。
「ああ。だからさ、ありがとな」
お前がこの力を与えてくれたおかげで、俺は美緑を救えるかもしれない。
――すまんな。
「どうして謝る?」
黒猫の表情なんてわからないけれど、どうしてか神妙な面持ちに見えた。
――もしワタシがもう少し
戻した時間の五倍の寿命を、代償として払わなければならない。たしかにその副作用は、人間にとっては非常に大きなものだった。
「そんなことか。いいよ。美緑を救えるだけでも十分だ」
それは紛れもなく、俺の本心だった。
――貴様は、自分が何をしようとしてるのか、わかってるのか?
「ああ。お前は俺を止めにきたのか?」
俺と黒猫はそのまま見つめ合う。突き刺すような鋭い眼光は、さすが神様といったところか。
――いや、想い人が亡くなって、自棄になっているだけなら止めるつもりでいたが、貴様の目を見たら大丈夫そうだ。たしかな覚悟が見える。
「そっか。心配してくれてありがとな」
――心配などしとらんわ! ほら、早く力を使え。もたもたしてたらその五倍分、寿命が持っていかれるぞ。
「おう。言われなくても」
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