第2章 微熱の予感

2-1 手のひら温度と心臓の音。


 中学三年生の柳葉やなぎば美緑みのりは、教室の窓から外を眺め、ボーっとしながら考えていた。

 何かあったのだろうか……。


 悩みの種は同級生の男子、黒滝くろたき優弥ゆうやについてだった。最近、どこか変な気がするのだ。


 美緑と優弥は、物心がついたときにはすでにお互いのことをよく知っていた。家が隣同士で、一緒の学年。小学校の頃は同じ登校班で、毎朝一緒に学校に通っていた。


 親同士も仲が良く、どちらかの家で一緒にご飯を食べたり、少し遠くに出かけたりするなど、家族ぐるみで交流があった。


 子どもの頃の美緑は、大人になったら優弥と結婚するものと信じて疑わなかった。わざわざ口に出しはしなかったが、それが当然のことだと思っていたし、優弥も同じように思っているものと考えていた。


 けれども、世間一般の男女がそうなるように、学年が上がるにつれて、優弥は美緑と距離を置くようになった。美緑の方も遠ざかった距離を埋めようと、優弥に近づくようなことはなく、女子の友達が増えていった。


 ライクの好きとラブの好きの区別もつくようになると、優弥と結婚するのだというようなことも、いつの間にか考えなくなっていった。今にして思えば、なんてバカなことを考えていたのだろうと思う。


 小学生の低学年の頃は、よくお互いの家を行き来していたのに、徐々にそういった機会は減った。中学生になってからは、ほとんど会話らしい会話をしていない。


 しかし一週間ほど前、中学三年生になった二人の間に変化があった。

 それは、空気が冷たくなり始める十月のある日のことだった。


 美緑は三年生になってから、昼休みは図書室で過ごすのが日課になっていて、その日も例に漏れず図書室で本を読んでいた。静かな空間は居心地が良く、何をするにも集中できる。


 時計を見ると、昼休みが終わろうとしていた。

 美緑は読んでいた文庫本を鞄にしまい、図書室を後にする。


 五時間目は体育の授業だ。体育祭が近く、今日もその練習だった。美緑は運動があまり得意ではなかったが、イベントは好きだった。中学生最後の体育祭を楽しみにしていた。

 体操着に着替えるために更衣室へ向かう。


「柳葉」

 廊下を歩いていると、後ろから声をかけられた。それが優弥の声だと、すぐには気付かなかった。


 振り返って「ん?」と首を傾げる。

 いつからか、優弥は美緑のことを苗字で呼ぶようになっていた。彼の声が低くなるのと同じタイミングで、優弥の中で彼女は、美緑から柳葉になった。


「授業、出るのか?」

 質問の意図が、よくわからなかった。


「うん。出るけど……なんで」

 体育の授業は隣の優弥のクラスと合同で行われる。そのため、次の授業が二人とも体育であることを、優弥も当然知っているはずだ。


 優弥は、一瞬だけ目を合わせたかと思えばすぐに逸らして、ためらいがちに口を開いた。


「……体調、悪そうだけど大丈夫か?」

 小学生のときの甲高さが嘘のように男らしく低い声だった。どこか自信がなさそうで、美緑の反応を怖がっているような印象を受けた。


「えっ、どうして……」

 たしかに、美緑は今日熱があった。しかし高熱でもなかったし、少し無理すればどうにかなると思っていたため、体育の授業は最初から出るつもりでいた。


 それに今日は、三年生女子全員が出場する騎馬戦の練習なのだ。美緑が授業に出ないとなると、美緑と組むことになっている他の子たちが練習できなくなってしまう。


「……見りゃわかるよ」

 優弥はそう言ったが、仲の良い女子ですら、美緑のちょっとした不調を察知した様子はなかった。優弥が気づいたのは、きっと小学校からの付き合いだからで、他に理由なんてないのだろう。


 つまるところ優弥は、体調が悪いにも関わらず体育の授業に出ようとしている美緑を心配して、こうして声をかけてくれたということになる。


「でも……」

 頑張れば一時間弱運動するくらい、きっと大丈夫だ。私が休んでしまったら、みんなに迷惑をかけてしまう。優弥が気遣ってくれるのは嬉しかったけど、美緑は素直に授業を休もうとしなかった。


 はぁ。呆れたようにため息をつくと、彼は言った。

「他人のことを考えるのはいいけど、もうちょっと自分のことも大事にしろよ。ほら、保健室行くぞ。体育の先生には俺が言っとくから」


 優弥は、美緑の言おうとしていることを先読みしていた。

 美緑の手首をつかんで歩き出す。


 最後に優弥と手をつないだのはいつだったろうか。小学校の低学年だったはずだが、具体的な日付は覚えていない。そのときはまだ、手をつなぐという行為は、仲の良さを示すものでしかなかった。中学生はちょうど、つないだ手に別の意味を見出し始める年齢だ。


 授業が始まる直前。人気ひとけのない廊下を、保健室に向かって歩く。

 いつの間にか男の子らしく大きくなっていた優弥の右手が、美緑の左手首を覆っている。彼の手には力が入っているようで、少し痛かった。


 美緑がそのことを言えば、優弥はたぶん手を離してくれる。けれど、美緑は言わなかった。なぜかはわからないけど、このままつかんでいてほしかった。


 寝ぐせがついた後頭部と、昔に比べて大きくなった背中を視界に入れながら、美緑はそう思った理由を考えていた。しかし答えは出ない。心臓の鼓動が速くなっていることを優弥に悟られないように、美緑は黙ってついて行った。


 二人は無言のまま、保健室の前までやって来た。優弥はやっとそこで美緑の手を解放した。


 美緑は、今まで優弥が握っていた部分を、顔を動かさず目だけで見た。少し赤くなっていて、触れるとほんのり温かさを感じた。


 優弥は、躊躇いなく保健室の扉をノックすると「失礼します」と言って入室した。

「あら、どうしたの」

 保健室の中では、ふくよかな養護教諭が机に座って何か作業をしていた。


 美緑はあまり保健室の世話になったことがないので、その教諭を見るのは久しぶりだった。初めて見たとき、柔らかそうな人だと感じたことを思い出す。


「すみません。この人、体調が悪いみたいなんで、休ませといてください」

 美緑がボーっとしていたからか、優弥が代わりに説明してくれた。


「はい、わかりました。ありがとね」

 養護の先生が安心感百パーセントの笑顔で答える。表情だけでなく、存在そのものから優しさがあふれ出していて、この保健室を満たしている。そんなイメージがあった。


 そういえば、小学校のときも保健室の先生って、すごく優しい人だったなぁ。養護教諭には、生徒を安心させる表情の試験でもあるのだろうか。


 美緑はそんなことを考えながら、白衣を着た柔らかそうな養護教諭に促されるまま、ベッドに腰かけた。


「はい。じゃあ、これ」

 養護教諭が体温計を渡してくる。どうやら、美緑以外に生徒はいないみたいだった。


 優弥にお礼を言わなくては……。そう思って入口の方を見たのだが、優弥はすでにいなくなっていた。


 じっと、体温計が鳴るのを待つ。

 現実感がなくて、夢の中にいるみたいだった。保健室という特殊な環境や体調不良のせいかもしれないし、優弥に手首を握られたからかもしれない。


 ピピピ、という音で我に返り、脇から体温計を取り出す。三十七度六分。小さなモニターにはそう表示されていた。


 ああ、結構高いな。朝よりちょっと上がってるし。

 美緑は自分の体の温度に対して、他人事のような感想を抱いた。


「あらら。ちょっと熱があるじゃない。こういうときは無理しちゃダメよ」

 覗き込んだ養護教諭が、ゆったりした口調で言う。


「すみません」

 美緑はうつむいて小さな声で言った。


「謝らなくていいの。もし寝れるようだったら寝ておきなね」

 そう言った養護教諭の笑顔は、とても自然で優しかった。


 一度ベッドに横になると、自覚していなかった気だるさが全身を襲う。

 保健室独特の消毒液の匂いを感じながら、美緑は意識を手放した。

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