2-2 ただ、それだけのことだ。


 目が覚めたときには、およそ二時間が過ぎていた。結局、体育の時間だけでなくその次の数学の時間も、美緑は保健室で過ごしたことになる。


 誰かにノートを写させてもらわなくては……。まだボヤっとする頭で、美緑はそんなことを思った。


 放課後を告げるチャイムが響く。あともう少し休んだら教室に戻ろう。

 寝起きだからかもしれないが、全体的に体がだるい。思ったより無理をしていたことが発覚した。


 もし体育の授業に出ていたら、倒れていたかもしれなかった。余計に迷惑をかけてしまうことになる。美緑は反省した。


 そして、それを防いでくれた優弥には感謝していた。

 でも、どうしてわざわざ忠告してくれたのだろう。事務的な会話を除けば、優弥とは話すこと自体久しぶりだった。


 毎日のように遊んでいた小学生のときに比べると、優弥とは疎遠になっていた。それどころか、避けられていたようにさえ思う。


 偶然登校の時間が一緒になったときだって、ちょっとした挨拶くらいは交わすけど、優弥は美緑に構うことなく、先に歩いて行ってしまう。


 それに、かなり無理やり美緑を保健室に引っ張っていったことも疑問に思った。

 優弥につかまれた手首に視線を落とす。優弥の手の感触がよみがえってきて、顔が熱を帯びた。


 たしかに体調は悪かったけれど、そこまで表には出していなかったはずだ。明らかにつらそうな様子だったら、無理するな、とか休んでろ、くらいは言うかもしれないけど……。


 中学に上がってからの二人の関係と、今日の優弥の態度が、なかなか結びつかなくて不思議な感じ。


 そんなことを考えていると、当の本人が現れた。

 優弥はスライド式のドアを半分くらい開けて、首だけ入室する。保健室の中を見回して、美緑と養護教諭以外に人がいないことを確認してから、こちらに歩いて来た。


「大丈夫か?」

「うん」


 どさり、と通学用の鞄が二つ、ベッドの上に置かれる。美緑のお気に入りのゆるキャラのキーホルダーが付いていた。どうやら優弥は、美緑の鞄も一緒に持ってきてくれたようだった。


「歩けるのか?」

 保健室に美緑を連れて来たときとは違い、優弥はきちんと目を合わせて聞いてきた。


「たぶん」

「ん。鞄は俺が持つ。じゃあ行くか」

「え……ああ。ありがと」


 優弥が送ってくれるようだ。そのことに数秒間気づかなかった。家が隣だし、優弥にとっては当然と言えば当然かもしれないけれど、距離が遠ざかっていた日々のせいでなんだか恥ずかしい。


「あ、そうだ。教室からそのまま持ってきたけど、鞄に入ってるやつ以外で、何か持って帰るもんあったら言えよ。俺が取って来る」


「ううん。大丈夫」

 ぶっきらぼうな口調で、優しい言葉をかけてくる優弥がなんだかおかしくて、美緑は少し笑ってしまった。


「何で笑ってんだよ」

 怪訝そうな顔で優弥が言う。


「なんでもない。ほら、行こ」

「ああ」

 美緑はベッドから立ち上がった。


「もう大丈夫なの?」

 デスクで書類を眺めていた養護教諭が言った。


「はい。先生、ありがとうございました」

 美緑は彼女に頭を下げる。


「はーい。気をつけてね」

 柔らかそうな養護教諭は、笑顔で送り出してくれた。


 若いっていいわね。そんな呟きを背後に聞きながら、美緑は二人分の荷物を持った優弥と保健室を出た。


 下駄箱で靴を履き替え、昇降口を降りる。

 外は風が少し冷たくて、冬が近づいてきているのを感じた。


「なんか、久しぶりだね。こうやって二人で歩くの」

 体調はまだ万全とはいかないが、かなり楽になっていた。


「ああ」

 校門を通って、いつもと変わらない通学路を、優弥と二人で並んで歩く。終業時間から少し経っているが、他の生徒もちらほら目に入る。気恥ずかしさと懐かしさと安心感が、三、三、四くらいの割合。


 黙っているのもなんとなく気まずいので、美緑は切り出した。

「優弥は志望校、もう決めた?」

 美緑たちは中学三年生で、数ヶ月後には受験だ。


「んー、候補はいくつかあるけど、まだ迷ってて……。一応、第一志望は春宮はるみやってことになってる。……柳葉は?」

 聞くか聞かないかを逡巡したような間を空けて、優弥が尋ねた。


「私も春宮かなー」

 県立春宮高校。自由な校風で、イベントが多い。美緑たちの通う中学校から一番近い高校だった。偏差値はそこそこ高いけど、このまま順調にいけば美緑は問題なく受かるだろう。


「そっか。じゃあ俺も春宮目指して頑張るかな。偏差値足りないけど」

 何に対しての『じゃあ』なのだろうか。美緑は疑問に思ったが、そのまま会話を続けた。


「優弥ならきっと大丈夫でしょ」

 美緑は、優弥が意外と努力家だということを知っていた。人が見ていないところで頑張っている優弥の姿を、美緑は小さい頃から見てきた。


 幼稚園のとき、お遊戯会の劇の練習をしている様子が、隣の美緑の家まで聞こえてきた。小学校の帰り道、九九のプリントを見ながら必死に覚えていた。


「んなことはねえよ。この間の英語のテスト、過去最低を更新したんだぞ」

「でもさ、数学とか理科とかはいつも上の方にいるじゃん」


 定期テストのたびに廊下に貼りだされる順位表では、総合と各科目の上位三十人までが掲載される。その中でたまに、優弥の名前を見るのだ。


「よく見てんな」

「まあね」

 優弥の名前だから覚えてた、なんて言ったら、どんな反応をするのか気になったけれど、口には出さない。


 そこからは様々な話題が出た。厳しい教師に対する愚痴や共通の知り合いの話をしながら、二人は歩いた。


「ほら、じゃあこれ」

 家の前まで来ると、優弥が美緑のバッグを渡してくる。


「ありがと」

 美緑はそれを受け取って礼を述べた。


「おう、早く治せよ」

 優弥が自宅に入るのを見届けてから、美緑も玄関をくぐった。


 その日以来、優弥との距離が近くなったように思う。昔のように頻繁に話したりするわけではないけれど、休み時間に廊下で会ってちょこっと話したり、家を出るタイミングが同時になったとき、そのまま並んで登校したりもした。


「美緑、最近黒滝と仲良いよね。付き合ってんの?」なんてクラスメイトから聞かれたりもしたけど「別に。そんなんじゃないよ」とテンプレの返答をしておいた。


 実際、そんなんじゃなかったし、質問をされたのはそのときの一度きりで、特に冷やかされたりなどもなかった。みんな受験勉強でいっぱいいっぱいで、他人の色恋沙汰に首を突っ込んでいる暇などなかったのかもしれない。いや、色恋沙汰じゃないけど。


 美緑にとって優弥は、ただ単に家が隣の仲の良い男子だ。それ以上でもそれ以下でもない。疎遠になっていたのは、お互い異性と仲良くすることを恥ずかしく思っていたからで、最近また話すようになったのは、そういう時期が終わったから。ただ、それだけのことだ。


 ただ、それだけ。

 美緑は自分に言い聞かせるように、心の中で繰り返した。

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