1-5 これがただの悪い夢であったら、どれだけよかっただろうか。


 ふざけんな。美緑を返せ。なんで美緑が死ななくちゃいけないんだ!

 そう怒り狂いながら、目の前の医師につかみかかることもできた。それくらいの、世の中の理不尽に対する怒りはあった。


 けれども、そんなことをしたって、美緑は戻ってこないこともわかっていた。ただ、悲しさが増すだけだ。


 ある程度冷静になった俺は、医師から説明を受けた。

 職場である幼稚園で、彼女はいきなり倒れた。同僚の通報によって救急車が呼ばれ、この病院に運ばれたらしい。


 脳の血管が細くなっていて、そこに血液が詰まってしまい……。

 そんなことを医師は言っていたが、細かいことはあまり聞いていなかった。


 もはや、死因なんてどうでもよかった。美緑がこの世界からいなくなってしまったということだけで、俺が絶望するには十分だった。


 その後は、医師や看護師に心配されながらも病院を後にした。

 どうやって家に帰ったのかも忘れてしまった。


 気づいたときには、俺は自宅のリビングでソファに座り、静かに涙を流していた。

 これがただの悪い夢であったら、どれだけよかっただろうか。


 本棚に詰め込まれている本は、七割以上が美緑のものだった。彼女は、寝る前には決まって本を読んでいた。


 床にはゴミの一つも見当たらない。綺麗好きな美緑は、いつも楽しそうに鼻歌を歌いながら掃除機をかけていた。


 出窓に飾られたラベンダーの鉢植えは、去年の結婚記念日に俺がプレゼントしたものだ。美緑は慈愛に満ちた表情で、毎日欠かさずに水をあげていた。


 今座っているソファも、美緑が選んだものだ。かなり高い値段を見て、俺はもっと安いのでいいじゃないかと反対したが、珍しく美緑は自分の意見を押した。結局、座り心地が良くて俺も気に入った。


 この家にいると、嫌でも美緑の痕跡が目に入る。

 だからといって、家の外に出る気力もない。


 今になって喪失感がこみあげてくる。その喪失感を体の外に追い出すかのように、あふれる涙は止まらなかった。

 俺の幸せだった世界は、呆気ないほど簡単に反転してしまった。


 そしてこのときはまだ、俺自身が奥の手を持っていることも、頭から抜け落ちてしまっていた。




 美緑の死から数日後、彼女の葬式が執り行われた。

 美緑の両親や、美緑の弟であるつばさに手伝ってもらい、彼女と別れる準備を整える。


 美緑の両親は、目の下に濃いくまを作って、まるでロボットみたいに淡々と動いていた。自分の感情を全て殺しているように見えた。


 僧侶の読経。会場のあちこちからすすり泣きが聞こえた。美緑がたくさんの人に愛されていたことを、そこで改めて思い知る。


 美緑の母親はとうとう耐えられなくなったらしく、まるでダムが決壊したかのように、激しくむせび泣き始めた。その隣の父親も、左手で妻の背中をさすりながら、右手で顔を覆っている。


 美緑の両親は、とても暖かい人たちだった。美緑と結婚した俺に対しても、実の息子のように接してくれた。


 読経が終わると、焼香の時間となった。

 美緑の死を悼む人が、線香をあげて合掌していく。一人ひとりに頭を下げる。俺と美緑は同じ中学、高校ということもあってか、見知った顔が多かった。


 砂生さそう彩楓あやかも、そのうちの一人だった。同じ高校で、美緑と仲の良かった女子。その関係で、俺も彼女とは親しくしていた。今の彩楓は、普段の凛とした様子が嘘のように、瞼を腫らしている。


 葬式が終わった後、俺はある男から衝撃的な台詞をぶつけられた。

「実は俺も、好きだったんだ……」

 誰のことが、とは言わなかったが、すぐに美緑のことだとわかった。


 その男は、中学、高校が一緒の、仲のよかった男子だ。美緑ともよく話していたが、恋愛感情を持っていたとは思わなかった。


 彼の台詞には、俺に対する非難が含まれているような気がした。

 ――お前のせいで美緑は死んだんだ。お前が、ちゃんと美緑を守ってやれなかったから。


 美緑の死は、俺がどうあがこうと阻止できるようなものではなかった。

 わかっていても、罪悪感と自己嫌悪でどうにかなりそうだった。




 胸にぽっかり穴が空いたとか、そんな言葉ではとても表せないほどに、俺は自身の存在価値を見失っていた。


 愛する人のいなくなった世界で、生きている意味なんて一つもない。

 けれども死ぬ気力もない。


 空っぽのままで葬式を終え、やって来たのは今まで以上の寂寥感と喪失感だった。

 これまで生きてきた意味が、これから生きていく理由が、俺の中から失われてしまった。


 美緑の命は二十五年で終わった。

 彼女は、もっと生きて、もっと色々なものを見て、聞いて、体験するはずだった。


 俺が、彼女をもっと幸せにするはずだった。

 あまりにも理不尽すぎる運命を、強く呪った。


 美緑の葬式が始まる前から、ずっと考えていたことがある。

 俺は特別な力を持っている。それを使えば、美緑を助けることができる。その特別な力は、きっとこのときのためにあったのだと思う。


 しかし、その力には非常に危険な副作用があって――。考えをまとめる時間が必要だった。


 いや、すでに心の奥では、考えは決まっていた。あとは覚悟の問題だ。

 もしも美緑の幸せが戻ってくるのなら、俺は――。

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