第6章 決意の悲恋

6-1 この世界で今度こそ、俺は彼女を幸せにする。


 時を巻き戻して、俺は十一年前にやってきた。

 布団から起き上がり、カーテンを開けようとして手が壁にぶつかる。そうか……。ここは俺がついさっきまで住んでいた部屋ではないのだ。


 九十度違う方向に手を伸ばし、今度こそカーテンを開けると、体が朝日に包まれた。一気に部屋の中が明るくなる。


 勉強机に本棚。枕の横には、数世代昔のゲーム機と折り畳み式の携帯電話が置かれている。懐かしいものばかりだ。


 腕や足を動かしてみる。体が軽い気がした。若いっていいな。そんな場違いな感想を抱く。体のサイズが一回り小さくて、なんだか変な感じだ。二十六歳の大人から、いきなり中学三年生になったのだから当たり前だけど。


 部屋を出て階段を降り、リビングへ向かう。

「あら、おはよう大地だいち。今日は早いのね」


 台所の母親が言った。白髪もしわも見当たらない。俺が時を巻き戻す前に最後に見た母親は、髪は白くなり、愛嬌のあるその丸顔にはたくさんのしわが刻まれていた。


 十一年という年月の長さを実感した。

 本当に、俺は戻ってきてしまったのだ。美緑みのりの死の原因になる事故の日に。


 絶対に、彼女の死を回避しなくてはならない。

 朝食を食べ終えて中学の制服を着ると、決意を胸に家を出た。

 この世界で今度こそ、俺は彼女を幸せにする。




 教室の前に立って、深く呼吸する。緊張と不安が襲ってくる。経験はないけれど、転校の初日はきっとこんな感じなのだろう。


「よっ、平賀ひらが

「あ、おう」

 名前を呼ばれて、とっさに返事をした。声をかけてきたのは、坊主頭の男子だった。


 見覚えはあるのだが……誰だっただろうか。おそらく野球部。しかし、名前が出てこない。その男子はそれ以上は俺に話しかけることはなく、自分の席へと歩いて行った。


 教室を見渡して、俺は重大なことに気づいた。クラスメイトの大半の名前を忘れてしまっている。まずいな。あとで覚え直さないと……。


 うっすらとだけ残っている記憶と、すでに誰かが座っている場所を元に消去法を使って、なんとか自分の席を見つけ出す。鞄から教科書類を取り出して机に突っ込むと、俺は優弥ゆうやの元へ歩み寄った。


 人懐っこい笑顔で制服を着崩した中学生の黒滝くろたき優弥の周りには、たくさんの人が集まっている。


「優弥」

 背中を軽く叩いた俺に「うぃっす、大地」と、眩しい笑顔で応える。

 優弥はいつだって、クラスの中心にいた。


 朝のチャイムが鳴るまでの数分間、俺は優弥と話した。ボロが出ないように、なるべく聞き役に徹する。優弥とのやり取りは、俺に中学時代の自分のことを思い出させてくれた。


 休み時間に、黒板や教室の壁に貼られているプリントを見ると、さらにたくさんのことがわかった。


 このクラスの人数は三十四人。学級目標は明るくて笑顔が絶えないクラス。俺の出席番号は男子の十三番で、美化委員を務めている。


 そんなささいな情報が引き金となり、記憶が次々とよみがえってくる。忘れていたわけではなく、記憶の奥底にしまわれていただけみたいだった。


 昼休み、優弥を人のいない場所へ誘い出した。

「どうしたんだよ」

 優弥が怪訝そうに聞いてくる。突然のことで不審がっている様子だった。


 当然のことながら、心当たりもないはずだ。もし呼び出された相手が女子なら告白かもれない、とドキドキするシチュエーションだが、残念ながら男。それも中身は二十六歳のおっさん予備軍だ。


「なあ、柳葉やなぎば美緑っているじゃん?」

 俺は優弥の質問には答えず、本題を切り出した。


「ああ」

 まばたきの回数が多くなった。わかりやすいやつめ。

 さあ、ここからが本番だ。


「優弥の幼馴染だよな」

「まあ、ただ家が隣なだけだけど」


「もしだけど、俺が柳葉のこと、好きって言ったらどうする?」

「はあ?」

 優弥の声がひっくり返った。


「いや、だから――」

「べっ、別にどうもしねえよ。どうしたんだよいきなり」


「そっか。それならよかった。近いうちに告白したいんだけど、協力してくれない?」

 しれっとした顔で俺は言った。優弥がわかりやすく動揺している。


「いや、でも俺、あいつとそんなに仲良くないし……」

「そうか。残念だ。じゃあ、一人でどうにかするよ」

 俺は立ち上がって、その場を去ろうとする。


「待てよ!」

 優弥が俺の右肩をつかんだ。とっさの行動だったようで、本人も少し驚いている。


「ん?」

「あいつの、どこがいいんだよ」

 真剣な目つきだった。


「さあね」

「真面目に応えろよ」

 真面目に答えたなら、三時間以上はかかるだろう。美緑の好きなところなんて、いくらでも言える。


「どうしてそんなに必死になってんだよ。そんなに仲良くないってさっき言ったばかりじゃないか」


「それは……俺も、柳葉のことが、好きだからだよ」

「へぇ」


 中学生をからかうのは思ったより楽しくて、意地悪な表情になってしまっていたらしい。


「ムカつく顔だな。一発殴らせろ」

 優弥は口は悪いが、決して暴力を振ったりしない。すぐに冗談だとわかる。


「ごめんって。で、さっきの俺の言ったことは嘘だ」

「はぁ⁉ 嘘って、どっからどこまでが……」


「全部。柳葉さんを好きだってことも、告白するってことも全部だよ」

 前半は嘘じゃなかったけれど、絶対に言わない。


「なんでそんな嘘ついたんだよ」

「そりゃ、お前のためだ」

「俺のため?」


「ああ。柳葉さんのことが好きなんだろ? だから協力してやろうと思って」

 柳葉さん、という呼び方が慣れなくて、口を滑らせないように気をつける。


「お前、ハメやがったな!」

優弥が頭を抱えてしゃがみ込んだ。


「まあ、そういうことになるね」

中学生らしい素直な反応に、思わず顔がほころびそうになる。


「……なぁ」

「ん?」

「そんなにわかりやすかったか? その、俺が柳葉のこと……」


「いや、たぶん他に気づいてる人はいないんじゃないかな」

 実際に、時を巻き戻す前の世界で、中学三年生の俺は優弥の気持ちに気づいていなかった。幼馴染みだということは知っていたが。


「よかった」安堵のため息。「で、大地はどうしてそれに気づいた?」

「優弥のこと、ずっと見てたからかな」


 十一年後のお前が言ってたんだよ。……美緑の葬式でな。

 心の中でだけ、本当のことを言ってみる。


「気持ち悪ぃ」

「あはは。さて、俺は今日、柳葉さんの体調が少し悪いということを聞いた。でも彼女は、五時間目の体育に出ようとしている。これがどういうことかわかる?」


「……全くわからない」

 優弥は少し考えてそう答えた。


 相変わらず恋愛に関してはポンコツだ。高校生のときも、お前のことが好きだった女子が何人かいたことを、俺は密かに知っている。


「はぁ。少しは頭を使えよ。柳葉さんとの距離を縮めるチャンスだって言ってんだよ」

「チャンス?」


「ああ。彼女が無理して体育に出ようとしているところを、お前が止める。保健室にでも連れてってやればいいだろ。そしたら話すきっかけも作れるし」

「なるほど……」


「もし六時間目まで柳葉さんが保健室にいるようだったら、放課後、彼女の荷物を持っていってあげて一緒に帰るなんてこともできる。好感度アップだ」

「……お前、本当に大地か?」


 優弥のその疑問に、思わず背筋が伸びる。確かに俺は昨日までの平賀大地ではない。十一年後から来た平賀大地だ。そんなことを言ったところで、信じてもらえないだろうが。


「そうじゃなかったら誰だよ」

「いや、なんか変な感じがする」

 気づいてもらえた嬉しさ半分、バレるのではないかという怖さ半分。


「まあとにかく、積極的にアタックしないと後悔するぞ。女子はちょっと押しが強いのが好きだったりするんだから」


「彼女いたことないくせに何わかったようなこと言ってんだ」

「彼女いたことないなんて、俺がいつ言った?」


「は? おま……どういうことだよそれ! 俺は何も聞いてねえぞ!」

「ほら、もう授業だ。早く柳葉さんのとこ行ってこい」

 優弥の追及を、俺は笑いながらはぐらかした。


 優弥は実際に俺のアドバイスを実践してくれたようで、美緑は体育の授業を欠席した。


 もしも優弥がこの作戦に乗ってこないようであったら、俺がどうにかするつもりだった。グラウンドに水を撒いて外での体育を中止にしてもいいし、なんなら体育の教師を殴ってやってもいい。もっと直接的に美緑を休ませることだってできるだろうが、そうしないのには理由があった。


 とにかく一安心だ。美緑の死につながるあの事故を回避することが、この世界での最優先事項だったのだから。


 結局、美緑は六時間目も休んだようで、放課後、優弥は美緑の鞄を持って保健室に行った。緊張しているのがわかって、とても微笑ほほえましかった。

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