第5章 儚世の盟誓
5-1 どんなに強く願っても、届かない想いもあって。
それからの
文化祭や修学旅行は楽しかったし、進級するたびに新しい友達が増えた。勉強は大変だったけど、それなりに頑張った。
希望と輝きに満ちあふれた日常は、ドラマや漫画の中にあるような、憧れていたスクールライフそのものだった。楽しい出来事ばかりで、時間はあっという間に過ぎていく。不安でいっぱいだった美緑の高校生活は、想像していたよりも遥かに素敵なものとなった。
美緑は県内の国立大学に進学した。将来やりたいことは、まだ具体的には決まってないけれど、子どもが好きという安直な理由で教育学部を選んだ。
優弥は私立大学の工学部で、何やら難しいことを学んでいる。授業で使うらしい数学や物理の難しそうなテキストを見せてもらったことがあった。微分積分なんて、美緑は聞いただけでも嫌になる。
美緑も優弥も、大学へは実家から通っていた。通う場所が違うこともあり、高校のときのように毎日顔を合わせるわけではない。しかし家が隣同士なので、すぐに会える距離にいるという安心感は大きかった。
大学生になって一ヶ月が経とうとしていた、四月の終わりごろ。美緑の元に、
「もしもし、彩楓?」
〈美緑ぃ、明日、泊まり行っていい?〉
彩楓の声は少し湿り気を帯びていて、その時点で、どうして電話してきたのか、美緑にはなんとなくわかってしまった。
翌日は土曜日で美緑も特に予定はなかったため、彩楓の頼みを快諾した。
彩楓は地元から離れた大学の経済学部に進学し、この春から一人暮らしをしている。
最後に会ったのは三月の末、彩楓が引っ越す直前だった。
家族や友達のいない場所に行くことを不安そうにするでもなく、大学での新生活を楽しみにしているようだった。むしろ、寂しがっていたのは美緑の方だ。
電話のあった次の日、彩楓は手土産を持って美緑の家に泊まりに来た。
「美緑~。久しぶり!」
玄関で出迎えるなり、彩楓は抱き着いてきた。
柑橘系のいい香りが鼻腔をくすぐる。
「久しぶりだね」
高校の卒業式からまだ一ヶ月も経っていないけど、懐かしい感じがした。
黒いブラウスにグレーのフレアスカート。一見地味そうなモノトーンのコーディネートだが、彩楓はお洒落に着こなしていた。そして相変わらずスタイルがいい。短めにした髪を茶色く染め、毛先に緩いパーマをかけている。大学生になった彩楓は、その魅力的な容姿に一段と磨きがかかっていた。
二階にある美緑の部屋に案内する。途中で弟の
「こんにちは。お邪魔してまーす」
彩楓がそう声をかける。中学一年生になった翼は、綺麗な女性に緊張してか「あ、ども……」と呟いてすぐに自室へ戻る。
美緑の部屋で、手土産の高級ケーキを二人で食べながら、彩楓はポツポツと話し出した。
「あのね……
予想通りだった。けれどもそれは、美緑にとって当たってほしくなかった予想だ。
違うんじゃないかという期待を抱いていたせいで、彩楓本人の口から聞いたときは、それなりの衝撃を受けた。
彩楓は大地のことが好きだけど、大地には彩楓とは別に好きな人がいる。そんないびつだった関係が、いつか両想いになればいいと美緑は願っていた。
彩楓はそのまま大地を好きでいて、大地もなんだかんだで一途な彩楓のことを好きになって、二人はずっと一緒にいるものだと思っていた。彩楓にも大地にも、幸せになってほしかった。
でも、現実はそんなに簡単にはいかないもので。
それを望んだ分だけ、叶わなかったときの失望は大きくなる。
「そっか」
美緑は小さな声で答えた。
これほどに弱っている彩楓を見るのは初めてだった。いつも自分をしっかり持っていて、良い意味で女の子っぽくない女の子。そんな彼女が今、背中を丸めて目に涙をためている。
彼女がこんなにも落ち込んでいる姿を、美緑は高校での三年間の中で一度も見たことはなかった。それほどに彩楓の中で、
「やっぱり、私のことは好きになれないって。私はそれでもいいって言ったけど、向こうが申し訳ないからって」
「うん」
「大学で遠距離になるから、この機会にちゃんと終わりにしようって……」
「うん」
「三年間、一緒にいたのに。……ダメだった」
彩楓の目尻からこぼれた涙が、部屋の明かりを反射して宝石みたいに光った。
「……うん」
彩楓はダメじゃないよ。美緑はそう言おうとしたけれど、そんな言葉に意味は無いことに気づいて止めた。
今の彩楓が一番欲しいのは、安直な慰めの言葉でも、無神経な励ましの言葉でもない。自信の中で消化しきれない感情を受け止めてくれる誰かの存在なのだ。
ならば、自分がその存在にならなければ。美緑はそう思った。
美緑は相槌を打ちながら、まとまりのない彩楓の話を聞いていた。
涙に濡れた声を聞きながら、もし自分が同じ状況だったら……と美緑は想像する。
優弥には好きな人がいて、そんな彼のことを自分は好きになってしまう。きっと美緑は、優弥に好きな人がいるとわかったその時点で諦めてしまうだろう。
優弥の幸せを願いつつ、それでも自分の気持ちに折り合いを付けられないまま、ずるずると失恋を引きずってしまう。容易に、そんな想像ができた。
だから、優弥が想ってくれている幸せを存分に噛み締めて、向き合っていこうと思った。
そして同時に、それほどに大地のことを好きになった彩楓のことが羨ましかった。
三年間というのは、決して短くはない期間だ。それだけの間、一人の人をこんなに強く、純粋に想い続けることができるのは、すごく素敵なことだと思う。
しかし、どんなに強く願っても、届かない想いもあって——。
大地には、手が届かないと知っていながら好きになってしまった人がいた。
もしかすると、彩楓と付き合うことで、叶わない自分の恋を諦めようとしたのかもしれない。
平賀大地は誠実な人間だ。いい加減な気持ちで人と付き合うような男ではない。自分のことを好きだと言ってくれる人のことを、好きになれるように努力したに違いない。
そんな大地の優しさが逆に彩楓を傷つけてしまっていた。三年という期間は、彩楓の大地に対する恋心を、より膨らませてしまっていた。
彩楓は涙をこぼしながら話し続けた。平賀大地の好きなところ、嫌いなところ。同じ場所を何度も行ったり来たりしながら、彼女は最後に「好きだったなぁ」と締めくくった。
「美緑、聞いてくれてありがと」
最後に、彩楓は泣きながら——笑ってそう言った。
「うん。どういたしまして」
「大学で好きな人ができたら言うね」
それは、くよくよしていないで前へ進むという強い決意。大地のことはもう諦めるという意思表明。
美緑に話すことで、彩楓は一つの恋に区切りをつけようとしていた。
もちろん、三年間も一途に想い続けた人のことを簡単には忘れられないはずだ。それでも、彩楓はたしかに前を向いている。
母が作ったいつもより豪華な夕食を食べて、日付が変わるまで彩楓と喋った。
「そういえば、クロちゃんは元気?」
彩楓は引っ越しの際、飼っているハムスターのクロも連れて行った。
「元気元気! 相変わらず可愛いのよ!」
「相変わらず親バカだね」
「まあね。そうだ! 今度は美緑がこっちに泊まりに来なよ。そしたらクロにも会えるし」
「いいね! 行きたい!」
それから、どうでもいいような話を延々と続けて、なんだか高校時代に戻ったような気がした。卒業してからまだ一ヶ月くらいしか経っていないのに、懐かしさを覚える。
翌日の日曜日、美緑と彩楓は二人で買い物に出かけた。
「ごめんね。せっかくの休日なのに。
「ううん。たまにはこうして彩楓とデートも楽しいよ」
「嬉しいこと言ってくれるねー。好き!」
美緑よりも数センチ背の高い彩楓が、頭を撫でてくる。
「それに、優弥は今日はバイトだし」
「へぇ。何のバイトしてんの?」
「んー、バイトっていうか、ほぼボランティアみたいなもんかな。私たちの中学校の陸上部のコーチ」
「ああ、そうなんだ。そういえば中学のときって、大地も黒滝くんと同じ部活だったんだよね……」
彩楓の声が暗い雰囲気を纏う。
「あっ、ごめん」
「ううん。今のは私の自爆。あ、あのお店見たい。入ろ!」
彩楓が少し無理をして明るく振る舞っていることに、美緑は気づかないふりをした。
二人は色々な店を回って、数着の服を買った。大学生にもなると、ほぼ毎日私服で過ごさなくてはならない。高校生のように制服がないので、定期的に新しい服を買う必要がある。それが楽しくもあり、同時に面倒でもあった。
彩楓と過ごす時間は充実していて、すぐに夜になってしまった。
「いやぁ、楽しかった。また遊ぼうね。ゴールデンウィークとか、たぶんこっち帰って来るから」
改札の前で彩楓が言った。
「うん。また」
「それじゃーね」
彩楓は手を振って、改札をくぐった。
いつもと変わらない芯の強い女の子に戻っていたけれど、まだ心の中では整理はついていないはずだ。きっと美緑に心配をかけないように努めているのだろう。
そんな彩楓の、小さくなる後ろ姿を見て、美緑は余計に切なくなる。
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