4-5 もっと素敵なことが待っていると、信じて疑わなかった。
空気が肌寒くなってきた秋のある日。美緑は彩楓の家に呼ばれた。見せたいものがあるのだと言う。
二人は学校でもそれ以外でも、行動を共にすることが多かったが、家に招かれるのは初めてだった。
美緑は、彩楓の部屋の前に立っていた。おそらく片付けているのだろう。三分ほど待つと、彩楓が「もう入っていいよ」とドアを開けて言った。
「……おじゃまします」
少しだけ緊張しながら、美緑は入室する。
水色を基調とした、素敵な部屋。それが第一印象だった。カーテンや絨毯が青系で統一されており、落ち着いた印象を受ける。
「汚くてごめんね」というのは、おそらく社交辞令なのだろう。美緑には、十分に清潔で整理整頓も行き届いているように見えた。「あ、上着はそのハンガー使って」
「ありがと。で、見せたいものって何?」
美緑は聞いた。
「ふふふ。今日見せたかったのは、この子!」
いつになくご機嫌な彩楓が、ミニテーブルの上を示す。そこには透明なケージが置かれていて、中で何かが動いていた。
「かっ、かわいい!」
小さなハムスターだった。カラカラカラカラ、と滑車を回している。
「でしょでしょ」
彩楓は自慢気に言った。
「ヤバいね、これ。ずっと見てられる。名前は?」
「名前はクロ。ほら、背中のとこ、ちょっと黒くなってるでしょ。あとね、餌を食べてるときのほっぺがすごく愛らしいの。たぶん、世界で一番」
彩楓は興奮し、聞いてもいないことまで話し出す。その親バカっぷりに、美緑は思わず吹き出してしまう。
「でも、どうしたの? いきなりハムスターを飼い始めるなんて」
彩楓から、ペットを飼いたい、というような発言は今まで聞いたことはなかった。すると、何かきっかけのようなものがあったのだろう。
「たまに通る道にペットショップがあるんだけど、そこで外から見えるケージにこの子がいてね。目が合ったのよ。かわいいなぁって思って見つめてたら、偶然お店の外を掃除してた店員さんに話しかけられたの」
「へぇ。店員さんからしてみれば、営業チャンス到来! ってところかな」
「うん。で、その店員さん曰く、同じ時期に入荷したハムスターの中で、この子だけ売れ残っちゃったんだって。そしたら、なんかもうさ、この子から『連れてって』って声まで聞こえてきちゃって。あ、これが運命ってやつか、なんて思って購入しちゃったわけ」
「彩楓って、意外とチョロいんだね」
そんな彩楓もいいと思うよ、という台詞はさすがに恥ずかしくて飲み込む。
「人情味にあふれてると言ってほしいな」
それから、美緑と彩楓は色々な話をした。
彩楓は相変わらず、大地との関係に悩んでいるらしい。
大地と彩楓は、一見、理想のカップルのように見えるけれど、少し複雑な事情があることを美緑は知っている。
「なんかさ、こう、向こうも色々と優しくはしてくれるのはわかるんだけどね」彩楓は、静かにため息を吐く。「やっぱりふとしたとき、この人が好きなのは私じゃないんだな、って思っちゃうの」
「うん……」
しばらく、クロが滑車を回す音だけが部屋に響いて。
「そもそも、今の関係だって一方的に無理やり頼んでるようなもんだし。これ以上望むのは、私のわがままなのかな……」
落ち込む彩楓を見るのは、美緑もつらかった。
だからといって大地を責めることもできない。彼もきっと、届かない想いに悩んでいるのだ。
どうして、こんなにも上手くいかないのだろう。
何も力になれない自分が悔しかった。
別れた方が、二人とも楽になるのではないか。そんな風に思ったこともある。しかし、美緑は決してそれを口に出さない。それは本人たちが決めることだ。
「はい、この話おしまい! 次、美緑の番ね」
「ええ⁉」
この切り替えの早さも、彩楓の長所の一つだ。
「黒滝くんとはどうなってんの? 一番最近のデートは?」
先ほどとは打って変わって、彩楓は楽しそうに質問してきた。
それから約一時間、美緑は彩楓の質問攻めに遭った。ようやく解放されると、その日はお開きとなった。
美緑もクロのことを気に入って、それから何度か彩楓の家に遊びに行った。餌を食べているクロはたしかに可愛かったけど、それを眺める彩楓の緩んだ表情も負けていないと思う。
優弥には部活もあって、あまり恋人らしいことはできなかった。けれど、自分のことを好きでいてくれる人がこの世界にいるという事実だけで、美緑は嬉しかった。
メッセージのやり取りや会話の頻度は上がったし、優弥の部活が終わるまで図書室で待って一緒に帰ったり、休日に二人で出かけたりすることもたまにある。
しかし、外から見る分には、今までとはあまり変わらない。二人の関係はまだ、幼馴染の友達の延長線上にあった。
変化が訪れたのは、付き合い始めてから最初のクリスマスだった。
その日二人は、隣の市の大型ショッピングモールに出かけていた。
並んで歩きながらウィンドウショッピングを楽しんだり、ほんのちょっとだけ高いファミレスでご飯を食べたりした。狙っていた映画はすでに席が埋まってしまっていて、人気のなさそうな別のものを見たのだが、これが予想に反して当たりだった。
「フツーに面白かったな」
「ね。ラッキーだった」
「残り物には福があるってやつだろ」
高校生のカップルらしい、模範的なクリスマスの過ごし方だと思う。何の変哲もないただのデートだけど、特別な人と過ごす一日はそれだけで特別だった。
クリスマスなだけあって、周りもカップルが多かった。そこら中に幸せな雰囲気が漂っているように感じた。もしくは、美緑自身がただ単に幸せなだけかもしれない。
映画を見終わった後、ゲームセンターで財布に気を遣いながらもクレーンゲームに熱中していると、時刻は夕方の六時を過ぎていた。混み始める前に、と少し早い晩ご飯を食べて帰路につく。
二人は手をつないで寒空の下を歩く。いつの間にか、並んで歩くときには自然に手を絡めるようになった。そのことがたまらなく嬉しい。
師走の寒さは厳しく、吐き出された息が白い。
「寄ってくか」
優弥が公園の方を見て言った。美緑も黙ってうなずいた。
つないだ手から、優弥の温度が流れ込んでくる。
等間隔で並んでいる木のベンチが一つ空いていたので、二人はそこに腰かけた。
「ちょっと待ってて」
美緑をベンチに残し、優弥は近くの自動販売機で、ココアとブラックコーヒーを買って帰って来た。
「どっちがいい?」
「こっち。ありがと」
美緑はココアを選ぶ。
かじかんだ手でプルタブを開け、口元へ運ぶ。甘い液体が、美緑の体を内側から温めていく。しかし数秒後には、外側から冷やされてしまう。
優弥は、缶をカイロ代わりにして手のひらを温めている。口元までマフラーにうずめているその横顔を、こっそり視界の隅に収める。
今ならはっきり言える。優弥のことが好きだった。
友達としてではなく、一人の男子として。
友達としての『好き』と恋愛の『好き』との間に、境界線はあるのだろうか。
あるとしたら、自分はいつ、その境界線を越えたのだろう。
知らない間に始まっていた初めての恋が、どうしようもなく愛おしくて。美緑は、この気持ちを大切にしようと思った。
「ねえ、そっちも飲んでみたい」
優弥の持つブラックコーヒーを見て、美緑は言った。
「苦いぞ」
「ダメだったら返す。ほら、私のココアあげるから」
半ば強引に二人の飲み物を交換する。美緑は半分くらい残ったコーヒーの缶を、口につけて傾ける。
「ん、これ美味しいじゃん」
優弥が言った通り苦かったけど、味は好きだった。
「あっま……」
同じように、ココアを飲んだ優弥が呟く。
「あ」
ふと呟いた美緑に、
「ん? 何だよ」
優弥の顔が向けられる。
「間接キス」
いたずらっぽい笑みを浮かべて言った。クリスマスという特別なイベントが、美緑を積極的にさせていた。
「今さら何言ってんだよ。昔さんざんしたろ」
たしかに、間接キスくらいなら小学生のときに何度もした。だから優弥の言っていることはその通りなのだが、街灯に照らされた彼の顔が赤くなっていることに、美緑は気づいていた。
「ねえ。直接……したい」
優弥と付き合ってから半年が経つが、まだしたことがなかった。彼氏がいるクラスの女子たちがそういった話をしているのを聞いて、たまに羨ましくなる。
優弥は黙ったまま顔を背けていた。
引かれたかな……。美緑も今さらながら恥ずかしくなって、優弥の方を真っすぐ見れないでいる。
美緑が言葉を発してから十秒ほどが経過したころ、優弥の右手が美緑の左の頬に触れる。ひんやりした感触。熱が奪われていくのがわかった。
二人はそのまま、じっと見つめ合う。
「美緑……」
心臓が跳ねる。今まで感じたことのない何かが体中を駆け巡り、涙が出そうになる。
――優弥が、名前を呼んでくれた。
小学生の時以来だった。けれども、昔とは明らかに違う感情が、その響きからは聞き取れた。
恋人の顔が近づいてくる。小さい頃から見慣れているはずなのに、心臓はものすごい速さで脈打っていた。
唇と唇が触れる直前で、美緑は目を閉じて――。
「……ココアと、コーヒーの味がした」
ぶすっとしか表情で優弥が言う。それが、優弥なりの照れ隠しだということはわかっていた。
「……ばか」
美緑と優弥との間に芽生えた小さな恋は、怖いほどに順調に育っている。これからもっと素敵なことが待っていると、美緑は信じて疑わなかった。
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