3-2 何かが始まる予感がしている。


 違うクラスになった優弥と別れ、美緑は自分の教室に入った。

 きっちり並べられた机と椅子。中学のときよりも広い黒板。


 学年が上がり、クラス替えが行われるのとはわけが違う。別の中学校から来た、まったく知らない人間がほとんどの空間。完全に未知の領域だった。


 入口付近に貼られた紙には出席番号順の座席表が印刷されていて、クラスメイトの多くは指定された席に座っているようだ。


 美緑も緊張しながら、自分の名前を探して席に着く。心臓はいつもよりも速く、顔がこわばっているのがわかる。


 やがて三十歳くらいの眼鏡をかけた痩せ型の男が入ってきた。美緑のクラスの担任らしい。

 彼は自己紹介を始めた。担当の教科は化学。よく通る声でハキハキと喋る。


 その後、プリントの配布や、翌日以降のスケジュールの伝達が行われた。


 早くも近くの席のクラスメイトに話しかけている者や、黙って黒板を見ている者、まばたきを繰り返しながらキョロキョロしている者など、生徒の振る舞い方は様々だった。新しい環境に浮き足立っているような雰囲気が、教室全体から感じられる。


 美緑も落ち着いてきて、周りを見る余裕が出てくる。

 そして、彼女はハッとした。隣の席に座っているのは、美緑の知っている男子だったのだ。彼は無表情で、配られたプリントを眺めている。


「平賀くん……だよね。私、同じ中学の柳葉だけど……わかる?」

 美緑は、そこまで積極的に人に話しかけるタイプではないが、コミュニケーション力が低いというわけでもない。不安な中で一方的にだとしても知っている人間がいれば、自ら声をかけるくらいのことはする。


 少し考える素振りをしてから「ああ、優弥の幼馴染の」彼の形の良い唇が開かれた。一応認識はされていたらしい。


「そうそう。同じクラスみたいだから、一年間よろしくね」

 精一杯の笑顔を作って美緑は言った。新しい環境での生活が幕を開ける今、クラスで孤立したくないというのもあったが、優弥の友人で同じ中学校出身の彼と、友好的な関係を築きたいとも思っていた。


「よろしく」

 しかし大地の方は、無表情でそう言うと正面を向いてしまう。まるで、これ以上会話を続ける気はない、とでも言うように。


 その後も、美緑は何度か大地に話しかけた。

「生徒代表ってすごいね。入試の成績がこの高校で一番だったってことでしょ?」

「たまたまだと思うよ」


「てかさ、入学説明会のときに出された宿題やった? せっかく受験が終わったっていうのに宿題とか酷いと思わない?」

「まあ、一通りは」


「部活とか、決めた? やぱり高校でも陸上部?」

「いや。たぶん入らないと思う」


「なんで?」

「大学、行きたいとこあるし。勉強に集中する」


 美緑の質問に、大地はただ答えだけを返す。そんな一方通行のやり取りだけど、会話のキャッチボールはしてくれている。露骨に嫌そうな表情も浮かべていない。


 嫌われているわけではない……と思う。けれども、どこかぎこちない。よそよそしいというか、白々しいというか……。


 緊張しているのかとも思ったけど、生徒代表のあいさつのときの様子を見る限り、そんな風には考えにくい。


「はい、それじゃあ今日はこんなところか。俺は基本的に化学準備室にいるから、何かあったら遠慮なく聞きに来てくれていいからな。あと、明日は自己紹介と委員会決めをする。適当に考えてくるように。そんじゃ、解散」

 担任がそう言うと、生徒たちは次々と立ち上がって教室を出て行った。


 美緑も帰ろうと教室のドアを開けると、廊下に優弥が立っていた。彼は美緑に気づいて、軽く右手を挙げる。どうしたのだろう。


「あ、もしかして平賀くん?」新しい環境で心細く、気心の知れた友達と話したいのだろうと美緑は予想した。「彼ならまだ中に――」


「いや、柳葉を待ってた」

「え?」

 予想外の言葉に、素直に驚く。


「何だよ。悪いかよ」

 優弥は頭の後ろを掻いて言った。中学校のときよりも伸びた髪のせいで、少し大人びて見える。


「いや、別にそんなことないけど……」

「クラスに知り合いもいねえし、一人で帰ってもよかったけど。せっかくだから」


 何がせっかくなのかはよくわからないけれど、美緑に断る理由はなかった。そうして、美緑たちは二人で帰ることになった。


「そうそう。平賀くん、席が隣だった」

 美緑も優弥も自転車通学だ。めったに車の通らない道路を、二人で並んでゆっくり走る。


「あー、大地ね」

「うん。話しかけたんだけど、全然会話が続かないの。なんかスライムを包丁で切ってるみたい」


「スライムって」優弥が笑う。「大地は基本的にそんな感じだよ。不愛想というか、感情を表に出さないというか、そもそも感情の波が小さいというか……。たまに俺でも、アイツが何考えてるかわかんないとこあるし。まあでも、フツーにいいやつだから」


 優弥が大地をそう評しているのを聞いて、美緑は安心した。どうやら、あれが彼の平常運転のようだ。


「へぇ。なんかミステリアスなんだね」

「そうだな」


「で、優弥のクラスはどんな感じ?」

「そんなんまだわかんねーだろ。あー、でも担任は当たりかも。放任主義って感じ」


「いいなぁ。こっちは若い先生だから、色々と首突っ込んできそう」

「ま、そういうのもいいんじゃね?」

「んー、まあねー」


 ペダルを踏みながら、美緑はこれからの高校生活に思いを巡らせた。


 漫画やドラマみたいに、輝かしいキラキラした青春でなくてもいい。望むのものは、そこそこ楽しく平和なスクールライフ。本音で話せる友人がいて、悩みを相談できる先生がいて、何でも打ち明けられる幼馴染がいてくれたら、それ以上は何も要らない。


 きっと、それでも贅沢な願望なのだろう。でも、願うだけならタダだ。できるだけ理想に近づけるように頑張ってみようと思う。


 難しい授業や試験にうんざりしたり、学校行事を全力で楽しんだり。何か新しいことを始めてみたりもしようかな。好きな人なんかもできたりして……。

 春の穏やかな陽気が、そんな素敵な三年間を美緑に予感させていた。

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