1-2 実った初恋と不思議な力。
俺が美緑のことを好きになったのは、中学生のときだった。
いつの間にか、教室は恋の話で満たされていた。
誰が誰のことを好きだとか、このクラスの女子だったら誰が一番かわいいかとか、そんな話をよく耳にするようになった。
この前まで、人気のアニメの話や発売したばかりのゲームの話をしていた同級生までもが、恋の話をするようになっていた。
あまりにも自然に移り変わるものだから、好きなアニメやゲームの話と恋の話は、きっとグラデーションに彩られて繋がっているのだと思った。
俺にはよくわからなかったし、クラスメイトに、好きな人いる? なんて中学生にありがちな質問を投げかけられたことだってあった。
俺も恋愛に興味はあったけど、誰かを好きになるとか、恋人ができるとか、そういう類のことはずっと先の話だと思っていた。
しかし、初恋は突然やってくる。
俺の初恋の相手――
勉強はそこそこできる。運動はちょっと苦手。友達は多い。他人と話すときはいつも笑顔で、先生にも好かれているようだった。
気がつくと彼女のことを目で追っていた。彼女の笑顔やしぐさに、胸の奥が温かくなる。その感情が恋だと自覚するまでに、数ヶ月を要した。
しかし、初めての感情を前に、どうしていいかわからなかった。距離を縮めようにも、なかなか自分から話しかけることができない。中学生なんて、みんなそんなものだと思う。
初恋を引きずったまま、俺は高校生になった。
志望校で迷っていたときに、美緑の第一志望が、選択肢のうちの一つだと知った。そこからは志望校を一つに絞って勉強した。今思い返しても不純な動機だったと思う。このことはまだ本人にも言っていない。
高校生になって、俺は美緑と仲良くなることに成功した。同じ中学校だという事実を理由に、積極的にアプローチしたのだ。休み時間に話したり、一緒に下校するときに寄り道したり、デートらしきものも何回かした。
二年生になるタイミングで、俺は勇気を出して告白した。
美緑の方も、俺のことが気になっていたそうだ。そのことを聞いたときには驚いた。そして、それ以上に嬉しかった。
世界が変わったような気がした。
大学では遠距離にもなったし、小さな喧嘩もたくさんあったけれど、おおむね順調に交際を続けた俺たちは、三年前に結婚した。
もう一度人生があったとしても、俺は美緑に恋をする。
これは予想でも願望でもなく、強い確信だった。
そして美緑の方も、俺と同じように思ってくれているとしたら、これほど素晴らしいことはない。
美緑は文庫本を読み終わり、閉じてテーブルに置いた。満足気な表情をしているから、きっと面白かったのだろう。彼女は目を細めて、ぐぐぐっと背伸びをした。
その瞬間、テーブルの上に無造作に置かれたスマホが震えた。美緑はスマホに手を伸ばす。
「あっ」
俺が気づいたときには遅かった。
彼女の腕がマグカップに当たり、倒れる。
「あっ」
こちらは美緑の口から発せられた声。
まだ残っていた茶色の液体が、テーブルの上に流れて広がる。
急いでティッシュを取り、コーヒーの浸食を止めようとする彼女を横目で見ながら、俺は能力を使った。
戻す時間は五秒間――。
五秒前と、一ミリたりとも違わず同じ場面。再び美緑のスマホが震える。ここで言う、再び、というのは俺にとってだが。
美緑が伸ばした手が、先ほどと同様にマグカップに当たりそうに――。
「おっと」
今度はしっかり反応して、美緑の腕が当たる前にマグカップをどけた。
「あっと、危なかった。ありがと」
「ん、気をつけて」
時間を巻き戻すことのできる力。
俺はまだ、この不思議な力のことを誰にも言っていない。もちろん、美緑にも。
きっとこのまま、誰にも言うことはないのだろう。
俺がこの力を手に入れたのは中学三年生のときだった。といっても、いきなり力に目覚めたわけではない。神様を助けたのがきっかけだった。
風が心地の良い春の日だった。土曜日で授業はなかったが、部活動はあった。
陸上部の練習を午前で終えた、中学校からの帰り道。
それなりに進路に悩んだり、他人の目を気にしてみたり。
自分が生まれてきた意味とか、答えの見つからない命題について真面目に考えてみたり……。
というような感じで、俺はごく普通の一般的な中学生を生きていた。
そんな何の変哲もない日常に、突然非日常はやってきたのだ。
交差点。カーブミラーで、左から車が接近していることを確認し、足を止める。
明後日までの宿題が終わってないなぁとか、あの漫画の最新刊はいつ発売だっけとか、退屈な下校中にふさわしい退屈な事柄をボヤっと考えていた。
目線より数センチ上にある塀の上を、黒い何かが横切った。
俺は反射的に視線を向けた。
狭い塀の上を、四本足で器用に疾走する小さな体躯。その正体は黒猫だった。
黒猫は軽やかな身のこなしで塀から飛び降りると、そのまま道路に飛び出して行く。
しかし、左側からは車が迫っていた。
猫は車を見て止まった。
このままだとはねられてしまう。考えるよりも早く、危険だと感じた。
「危なッ!」
気づいたときには、体が動いていた。
黒猫の後ろから道路に飛び出す。
映像がスローモーションになる。
前方に伸ばした手で猫を抱きかかえ、地面を転がりながら、急ブレーキの音を聞く。
「大丈夫かっ!?」
俺は腕の中に問いかける。
にゃ~ん、と緊張感のない声でそいつは鳴いた。よかった。無事みたいだ。安堵のため息が漏れる。
「ったく。お前、今死ぬとこだったんだぞ」
なんて言ってみても、もちろん通じるはずもなく、黒猫は俺の腕からすり抜けて地面に降り立った。呑気な顔しやがって……。
車の運転手は窓を開けて顔を覗かせる。四十代くらいの男だった。俺の無事を確認すると、舌打ちと「危ねえな。気ぃつけろよ」という台詞を残してすぐに走り去ってしまった。
そりゃ、飛び出したのはこっちだけど、もう少し心配してくれてもいいんじゃないだろうか。ああいう冷たい大人にはならないようにしよう。
立ち上がって手足を動かしてみると、
「いっ……」
右足首に痛みが走った。
折れてはいないようだが、歩くたびにズキズキした痛みを感じる。
なぁ~。腕の中から解き放たれた猫が、俺の方を見て鳴いた。
「ああ、大丈夫。ちょっと捻っただけだから」
心配そうに俺の顔を見てくるものだから、つい答えてしまう。
いつもは動物に話しかけるようなことはしないけど、こいつには意志疎通が図れているような気がする。
もしかして、人間の言葉を理解しているんじゃないだろうか。首輪はついていないから、野良猫のようだ。
猫は俺の足元にすり寄って来ると、負傷した右足首を舐めた。
「ありがとな」
その心遣いが嬉しくて、俺は再びしゃがんで黒猫の頭を撫でた。
なぁ~ん、と猫も気持ちよさそうに、されるがままになっている。
調子に乗ってあごの方も撫でてみる。猫は拒否することなく、ゴロゴロと喉を鳴らして幸せそうな表情。
ずいぶん人間慣れしているなと感心したが、まったく警戒しないのもどうかと思う。
「じゃ、俺は行くから。もう車にひかれないように気をつけろよ」
そう言って立ち上がった瞬間、違和感が全身を支配する。右足首の痛みが、綺麗さっぱり消えていたのだ。
「あれ……」
一瞬で治癒したのだろうか。いや、さっきまで歩けるかどうかすらわからないほどに痛かったのだ。それはあり得ない……。
動揺していて、痛みの発生源を左足と間違えていた? そんな可能性の薄い仮説まで持ち出し、左足に異常がないことを確認してその仮説を否定したところで、さらに驚きが上乗せされる。
――治ったか?
音に一本、しっかりした芯が通っていて、それでいて透き通るような綺麗な声。それが、頭の中に響いたのだ。
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