1-3 神様は猫の形をしていた。
耳で聞きとったものとは明らかに違うその声に狼狽しながら、俺は辺りを見回す。どこにも人の気配はない。
視線を上に向けても、気持ちいいほどに晴れ渡った青空しか映らない。
ならば、下か?
さっき助けた黒猫が、じっと俺を見つめている。
「まさか、お前か?」
あり得ないとは思いながらも、黒猫に向かって言葉を発してみる。
――いかにも。
再び、明瞭な声が頭の中に直接響いた。
「うわっ!」
思わず後ずさる。
――先ほどは助かった。感謝する。
「なっ、なんなんだよお前は!?」
ただの黒猫でないことは確かだ。
――ワタシか。ワタシは神だ。
もっと子供だったら、怖くて逃げていただろう。
もっと大人だったら、疲労が原因で幻聴が聞こえる、などと思って無視しただろう。
中学生という不安定な時期だったからこそ、俺はなんとか現実を受け止めることができたのかもしれない。
頭の中に声が響いて、その声の正体は黒猫で……その黒猫が神を名乗っている。
どうにかこの現状を脳内で処理しようとしていたが、完全に理解の範疇を超えている。思考がまったく追い付かない。
黒猫が俺の頭に直接語り掛けてくる。もし身近な誰かが大真面目な顔でそんなことを言ってきたら、俺は確実に心配する。
――さて、そろそろ冷静になってもらえたかな。
「なれるかっ!」
――まあ、とりあえず話だけでも聞いてくれ。
営業マンみたいなことを言って、胡散臭い猫は話し出した。
俺は数分間、黒猫の話を聞いた。
まず結論から言うと、この世界にはたくさんの神様が存在する。
神様を信じていない人間なんて大勢いるし、俺もその中の一人だった。ついさっきまでは。
そして神様は、多種多様な動物としてこの世界に紛れているという。猫以外にも、犬やハムスター、ペンギンや金魚など。人間に近い動物が多いらしい。
テレビや雑誌で取り上げられている怪奇現象の一部は、イタズラ好きの神様の仕業。宗教などで「神の声が聞こえる」なんて言ってる人間のうち、一割弱は本当に神とのつながりを持っている。
「んなこと信じられるか⁉」
話を聞き終えた俺の第一声はそれだった。しかし実のところ、半信半疑、いや、七信三疑くらいか。
実際に、謎の声が頭の中に響いてくるのだから、信じないわけにもいかない。
それに痛めた足首が治っていたことも、常識から大きく外れた何かの影響でもない限り説明がつかない。
神様が車にはねられそうになるかよ! というツッコミはこの際置いておいて、本当に神様が存在するのか、今いる世界が夢の中なのか、精神がおかしくなってしまったかのどれかだった。
夢にしては景色ははっきりと見えるし、精神も正常だと自分では認識している。
故に、この黒猫は本当に神様であるという結論に達するわけだ。不本意ながら。
それでもやはり、にわかには信じられない。懐疑的な視線を送っていると、黒猫は言った。
――さて、貴様に力をやろう。
「力?」
――ああ。神が人間に助けてもらったときには、謝礼として神の持つ力を渡すことが慣例になっている。人間も神に何かを頼むとき、お供え物をするだろう。それと一緒だ。
「へぇ」単純な男子中学生の俺は、力という響きに少し惹かれてしまった。「で、どんな力を貰えるんだ? 歯磨き粉を最後まで絞り出せる力? それとも、割りばしを綺麗に割れる力?」
――ふっ。そんなちゃちなものではない。
神様は俺の冗談めかした発言を一蹴して。
――時間を巻き戻す力だ。
そう言った。
「そんなもの、あるわけないだろ」
――なぜそう言い切れる。
「常識的に考えてだよ。まあ、お前とこうやって会話ができちまってる時点で常識も何もないけどさ。それに、百歩譲ってお前が神で、千歩譲ってそんな力を持ってたとしたら、さっき使ってればよかったじゃねえか」
――あっ……。
人間のくせになかなかやるではないか。黒猫の顔には、そう書いてあった。
「……」
――それはだな、貴様を試すためだ。そもそも力など使わずとも、疾風のごときワタシの瞬発力があれば、あんなのろまな車など余裕で避けられた……はず……だ。
漫画だったら確実に、黒猫の額には冷汗が流れているだろう。
「俺にはあんたが驚いて固まってるように見えたけど」
――なんだと⁉ 証拠はあるのか⁉
シャー、と威嚇しながら、猫は俺の脳内に怒ったような声を響かせた。
「ってかさ、気高い口調で話してるけど、お前結構ドジっ子だろ。車にひかれそうになったり、自分の力を忘れてたり……」
――なっなっななな何を言う! ワタシは正真正銘、気高い神様だ! バカにするのもたいがいにしろっ!
気高い神は自分で気高いって言わないと思う。
俺はいつの間にか、自然に神の存在を認めてしまっていた。うっすらと抱いていた恐怖も、どこかへいってしまっていた。
それにしても、人通りが少なくてよかった。俺は今、野良猫に話しかける危ないヤツになってしまっている。
「はいはい。で、何だって? 時間を巻き戻す力だっけ?」
――そうだ。早速力を渡すぞ。
そう言って、黒猫は数秒黙りこくったが、俺は何も変化を感じられなかった。
――どうだ?
「いや、全然わかんねえ」
――なら、そこの石を蹴飛ばしてすぐに力を使ってみろ。使うときは念じれば使える。
俺はしぶしぶ、黒猫の指示に従った。
足元の石を蹴飛ばして、三秒前へ戻れと念じる。
すると、目が回るような、脳が揺れるような、不思議な感覚に陥って。
足元には、先ほど蹴飛ばしたはずの石が落ちていた。
――どうだ。
「……確かに、戻ってる」
猫にもドヤ顔ってあるんだな。俺はそんなどうでもいいことを考えていた。
――気をつけてほしいのだが、この力には副作用がある。ああ、今使った分はカウントされないから安心しろ。
「副作用?」
――ああ。それはだな……。
黒猫は説明を始めた。説明があまり上手ではないようで、ところどころ質問を挟みながら整理して聞いた。
「……なるほどな」
その内容を理解した俺は、納得した。
それは副作用というよりは、リスクや代償と言った方がしっくりくるものだった。
時間を巻き戻すという、人生すら変えられそうな力とは釣り合いがとれているように思う。
――それと、力を使って過去に戻っている間は、そこからさらに力を使うことはできなくなる。
「どういうことだ?」
わかったような、わからないような……。
――例えば、貴様が力を使って五分だけ巻き戻したとする。その場合、戻った瞬間から五分間は新しく力を使えないということだ。
「ああ、そういうことか」
その例を聞くと理解できた。重複して力を使えないということらしい。
副作用などの制限はあるが、間違った使い方さえしなければ、あらゆる場面で大小さまざまな失敗をリセットすることができる、非常に便利な力だと思う。
――ちなみにもう一つ、大事なことを言っておく。この力を自分のために悪用した場合、貴様の魂は消滅する。
「魂が、消滅……」人間の言葉を操り、脳に直接語りかけてくる黒猫が言うと、そんなスピリチュアルな台詞も、笑い飛ばせる類の脅しではなくなる。「で、その悪用ってのは?」
――ああ。競馬や宝くじなど、金銭に関わること。あとは、入学試験や就職活動だ。はっきり分けるのは難しいが、誰にも迷惑のかからない範囲で使えば問題はない。
なるほど。少し安心した。
「そんなことはしねえよ」
俺は曲がったことは嫌いだ。
――その点はワタシも安心している。これでも人を見る目は確かだ。
認めてくれたみたいで、ちょっと嬉しかった。
――それではまた会おう。
最後にそう言うと、黒猫は素早い動きでどこかへ去って行った。
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