第1章 絶望の跫音

1-1 この幸せが、いつまでも続けばいいと思った。


 中学のときから好きだった、初恋の人と結婚して三年。

 今でもたまに、俺が生きているこの世界は、実は夢なんじゃないかと怖くなる。


 目が覚めたら、彼女のいない現実が待ち受けているかもしれない。

 彼女の姿は俺の妄想で、本当は実在していないのかもしれない。


 そんな風に疑ってしまうほどに、現実味がない浮ついた日々だった。自分でも馬鹿げていると思うけど。


 でも、彼女とこうして夫婦になれるということは、俺の中でそのくらい奇跡的なことなのだ。


 それ以上でも以下でもなく、俺はただ幸せだった。

 そして、この幸せがいつまでも続けばいいと、心から願っていた。




 夜の十一時前。俺は居間でノートパソコンを操作していた。

 会社から持ち帰った仕事だった。


 俺の職場は大きくも小さくもない、どこにでもあるようなIT企業だ。工学部の情報系の学科を卒業した俺は、就活を適当にこなし、内定をもらった中で一番緩そうなその職場でSEとして働いている。


 今のところ、これといって大きな不満もないし、上司からパワハラを受けたり人間関係に疲れたりとか、そういったこともない。忙しいときは少し仕事の量が増えるけど、それでも十分に自分の時間が取れる。


 大学時代の友人が、会社や上司についてSNSで愚痴を漏らしているのを見ると、そこそこ良い職場なのではないだろうかと思う。


 ごくたまに、今日のように職場で終わらなかった仕事を持ち帰ることがあるのだが、同僚に、なぜ残業しないのかとよく不思議がられる。

 これは完全に自分の問題なのだが、俺は残業というものが苦手だった。


 周りから聞こえるキーボードを叩く音が自分を急き立てているように感じ、どうも集中力がもたない。また、通常の業務に比べると、周りの人間から焦りが感じられ、それがこちらまで伝染してくるようなイメージがある。


 つまり、バタバタしている職場よりも、静かな自宅の方が落ち着いて仕事ができるというわけだ。


 現在開発しているシステムは、納期まではまだ時間があるけれど、直前になって焦るのは嫌いだった。コツコツと作業を進めていく方がいい。昔から俺はそういうタイプだった。


「ふぅ」

 キーボードを叩くのをいったん止め、細く息を吐き出す。これでもなかったか……。


 エラーの原因がわからなくて困っていた。

 怪しい部分を書き換えてみても思い通りに動いてくれない、という流れをすでに三回ほど繰り返している。


 このシステムを構築しているプログラミング言語は、まだ使い慣れていないものだった。これ以上は、俺の知識ではエラーの原因に見当がつかない。ネットで調べながらそれらしき部分を一つずつ修正していかなくては……。先が思いやられる。


「はい、コーヒー」

 俺がどんよりした気分に浸っていると、頭上から聞き慣れた声が降ってきた。妻の美緑みのりのものだ。遅れて、ほのかなシャンプーの香りが届く。爽やかな柑橘系の香り。


「さんきゅ」

 ちょうどいいタイミングで運ばれてきたコーヒーに感謝しつつ、美緑のお気に入りのゆるキャラがモチーフになったマグカップを受け取る。


 彼女は対面に座って、文庫本を読み始めた。

 食事も入浴も終えて、普段は一つ結びにしている髪を下ろしたパジャマ姿の美緑が、慣れた手つきで丁寧にページを捲る。残りのページの厚さから察するに、物語の中盤辺りだろう。


 俺は美緑の淹れてくれたコーヒーを口に含んだ。

 口の中に広がった熱くて甘い液体を舌でもてあそぶ。疲れが溶けていくような感覚が全身に広がっていく。


 今回みたいに、俺の分のコーヒーを美緑が淹れることもあれば、俺が美緑の分を用意することもある。


 俺が甘めで美緑がブラック。俺の好みの砂糖とミルクの量は、美緑も熟知している。もちろん、俺も美緑の好みは完璧に把握していた。


 濃厚な香りとまろやかな甘さを感じながら、俺はディスプレイとのにらめっこを再開。ようやくエラーの原因らしき部分が見つかり、修正作業に入る。


 俺がその作業をしている間、美緑は話しかけてくることなく、静かに読書を続けていた。


 絵に描いたような理想の夫婦だと、我ながら思う。

 籍を入れ、一緒に住み始めてから三年が経つ。お互いの仕事にも余裕が出てきた。そろそろ子どもが欲しいね、なんて会話もするようになった。


 この先もずっと、彼女と暮らしていくのだろう。もはや確信に近い俺の想像は、とても素敵で、とても幸せなことだ。


 美緑は幼稚園で働いている。幸いなことに職場は家から近いが、それでも朝の七時には家を出なくてはならない。


 幼稚園児の面倒なんて見たことのない俺でも、幼稚園教諭の大変さはなんとなくだけど理解できる。


 まだ小さい子供を預かっているということは、責任だって重大だ。そんな仕事に愚痴の一つもこぼさず、家でも笑顔を絶やさない美緑は、自慢の妻であると同時に、人間として尊敬もしていた。

 その上、毎日俺の弁当まで作ってくれているのだから、もう頭が上がらない。


 少しでも美緑の負担を減らそうと、家事を手伝ったりしてみたこともあった。しかし、掃除機でビニール袋を吸って詰まらせてしまったり、電子レンジで卵を爆発させてしまったりと、手伝うどころか余計な仕事を増やしてしまっていた。


 そんなわけで残念ながら、俺ができることといえば、風呂の掃除と皿洗いくらいだ。「私、家事は好きだから。気にしないで」と、美緑は言ってくれているが……。


 気づくと時計の短針は十一を過ぎていて、もうすぐてっぺんに差し掛かろうとしていた。


 目も肩も痛くなってきたし、思考も鈍くなってきた。あともう少し進めたら寝よう。疲れは効率的な作業の敵だ。


 美緑はまだ目の前で読書にふけっている。

「先に寝てろよ。明日も早いんだろ」

 さりげない口調で俺は言った。


 しかし美緑は、

「ん、まだ起きてる。この本の続きも気になるし」

 と、文庫本に目を落としたまま答えた。

 残りのページ数が少なくなっている。ちょうどクライマックス辺りだろうか。


 おそらく彼女の言うことは本当なのだろう。美緑は、俺が仕事に追われて遅くまで起きているからと言って、自分もそれに気を遣うようなことはしない。そしてそれは俺も同様だ。


 俺たちはお互いを思いやりながらも、自分の時間を大切にして結婚生活を送っている。


 ちらりと彼女の方を見る。

 内側に癖のついた髪に、シャープな輪郭の顔が収まっている。綺麗な薄茶色の瞳も、長いまつげも、本人が気にしている少し低い鼻も、その全てが愛しい。


 見られていることに気づいたのか、彼女は視線を上げると小さく微笑んだ。

 自分にはもったいないくらいの、最高のパートナーだと思う。


 だからというわけではないけれど、感謝の気持ちを忘れずに、全力で大切にしようと、俺は常に思っている。

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