第5話 終わりと始まり

 永らく塔を時の流れから切り離していた呪が、炎に焼かれ、その効力を失ってゆく。それにつれ、塔は本来の姿を追い求めるかのように、急速に朽ち始めた。

 塔の上部が崩れ落ち、小さな窓からの光を唯一の光源としていた牢に、眩いばかりの光が降り注ぐ。


 崩壊を始めた塔の中で、少女は空を見上げた。

 記憶に焼きついたあの日の空は、澄み渡った蒼だった。

 今、その身に炎をまといつかせた塔の中から見上げる空は、すべてを包むかのような炎に煽られ、鮮やかな緋に染まって見えた。

 あたかも、落日の夕映えのように。


 ──あぁ、やっと。やっと、解放される。

 溢れる涙もそのままに空を見上げていると、不意に背中に温かさを感じた。炎の熱とは違う、懐かしい温み。ひとの体温。

 背後から、少年が少女を抱きしめていた。


 燃え盛る炎の中で、少年は炎に焼かれる少女を、守るように抱いた。しかし炎は、少年の体だけを避け、容赦なく少女を襲う。

 少女が感じているだろう熱を、炎の感触を、感じ取れない自分に、少年は唇を噛んだ。


 自ら生み出した炎が決して自身を焼くことがないことを、知っている。

 最愛の姉をその炎で死なせてしまった日から、いっそこの炎で死ねたらと、何度願い、試したかしれない。そうして、思い知った。少年の炎は、彼自身が望もうとも、彼を焼くことはないのだと。

 それでも、もう一度。もう一度だけ、少女とともに自らの生にも終止符を打つことを儚く望んだ。

 けれど、やはりそれは叶わないようだ。


 絶望に、少年の心が軋んだ。その時。

 少女の声が、少年の耳を打った。

「きれいね……」

 囁くような声に視線を向けると、少女は一心に、空を見つめていた。その身を焼く炎も熱も感じていないかのように、穏やかな顔で。

「きれいな、空ね。わたしの覚えている空は──忘れられないあの日の空は、どこまでも澄んだ蒼で。泣きたくなるくらい、きれいだったのだけど。今、見えるこの空も、とてもきれい……」

 炎の色に染まった空を見上げ、死にゆくその身を少年に預けて。少女は穏やかに微笑んでいた。


「ありがとう」

 密やかな声が紡がれる。

 少女の体は炎をまとい、すでに手足の先から崩れ始めていた。それでも、支えるように抱く少年の腕の中で、少女は空を見つめている。

「ありがとう。あなたのおかげで、わたしはやっと──やっと、みんなと一緒に、眠れる」

 安堵したような、それが最期の言葉だった。


 気づけば少年は独り、朽ち果てた塔の残骸の中に立ち尽くしていた。

 崩れた石壁もひび割れた石床も、炎に炙られた痕跡もなく、ただ静かに朽ちたその身を晒している。

 少年は無言のまま、両腕を見下ろした。少女を抱きしめていた腕は虚空を抱き、確かに感じていた少女の温もりすら遠い。


 まるで、すべては白昼に見た夢のように。


 足下に散らばる、元は衣服だったのだろう布切れと、風化し周囲の瓦礫と同化している、おそらくは骨の欠片。それだけが、確かにここに彼女がいたという痕跡だった。

 風化してざらついた石床に膝をついて、少年は小さな白い欠片をひとつ、拾った。物言わぬそれを握りしめ、問う。

「ねぇ、ボクは。キミを、救えたのかな……?」

 聞く者も応える者ももはやいない問いは、荒野を吹き抜ける風に攫われて、空の彼方へと運ばれる。


 不意に、頬に温かな感触を覚えて、少年は俯けていた顔を上げた。

 瞠目する。

 朽ち果てた塔の残骸の中、ただ少年だけが立っていたはずのそこに──少女が、いた。

 文字通りに透き通る微笑みを浮かべ、小さな両手で少年の頬を包んでいる。

 ──幻? けれど、頬には確かに、細く柔らかい、指の感触。

 少年を見つめ、少女は優しく、ただ優しく微笑んで──

 降り注ぐ陽光に溶けるように、消えた。


 少女の姿があった空間を、そのとてもきれいな笑顔のあった場所を、呆然と見つめて。少年は静かに、声もたてずに泣いた。

 少女の幻影はただ微笑んだだけで、それさえも、あるいは少年の幻視かもしれない。

 それでも。

 生きてと、言われた気がした。

 ──生きて。あなたは生きていて、生きられるのだから。どうか……投げ出さないで。


 小さな白い骨の欠片を握りしめたまま、涙を拭って、少年は立ち上がった。

 姉を殺した日から、己の命に投げやりになっていた。罰を望み、死を求め、荒野を彷徨った。自らの炎が自らを焼かないことに絶望し、自分だけが取り残されたことに落胆した。

 けれど、自分は生きている。まだ、生きている。

 ならば、生きてみよう。己の罪を償うためにも。

 きれいな笑顔で微笑んで逝った、少女のような最期を迎えられるまで。


「──さよなら」


 名も知らぬままの少女に別れの言葉を残し、少年は確かな足取りで、塔を後にした。

 丘を下ったところで一度だけ振り返り、後は迷うことなく、荒涼とした大地に視線を据えて、かつて少女が愛した美しい都であった荒野を去っていく。

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塔の少女と炎の少年 @aoi-hitoha

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