5.
バケツはほぼ満杯になっていた。僕は、だいぶ重くなったバケツを足許に下ろした。花を摘むために右手を空けていたから、ずっとバケツを持っていた左手が痛い。
「ひょっとして、そろそろいっぱいになったかしら?」
ちょうどいいところにターニャが現れる。彼女はかがみこんで、花束をバケツに差し込んだ。
白い花が、バケツから溢れんばかりになっていた。
ターニャが満足そうに宣言した。
「よし、これだけあればじゅうぶんね」
「やった!」
僕は思わず歓声を上げた。ターニャはバケツの前にしゃがみこんだまま、満面の笑みで僕を見上げた。
「本当にありがとう! あとはこれを、奥さまにお渡しするだけだわ」
奥さま。その人は、こんなに白い花ばっかり、いったいどうするつもりなのだろう。少し疑問に思わなかったわけではないが、ただ白い花が好きだとか、そんなくだらない理由なんだろう。
ターニャは立ち上がると、大事そうにバケツを手に取った。
「私はお屋敷に戻るけれど、カートはどうするの?」
「僕は僕で、帰り道を探すよ。大丈夫、たぶん、なんとかなるはずだ」
僕の心の中には、絶対に家に帰れるという、奇妙な確信が生まれていた。
「そう……?」
ターニャは少し心配そうな顔をしたけれど、ゆっくりしている時間はないのだろう。ポケットからあれを取り出して、方角を確認した。その動作は、時間を確かめるのとそっくりだった。
これでお別れなんだ。そう思ったら、胸がぎゅうっと痛くなった。
「それじゃあ……」
ターニャはバケツの中から、一輪、白い花を抜き取って、僕にさし出した。
「本当にありがとう。貴方にも、幸運が訪れますように」
「……どう、いたしまして」
僕はやっとそれだけ言うと、ターニャから花を受け取った。
ターニャは僕に微笑みかけると、くるりと背を向けて歩き出した。
暖かくなった風に、彼女の長い栗色の髪がなびく。彼女が一歩僕から遠ざかるごとに、バケツの白い花が揺れた。
一歩ずつ、でも確実に、彼女は小さくなっていく。
もう、これっきり? 二度と彼女に会えないの?
胸の痛みに耐えきれなくなって、僕は大声で叫んだ。
「またね、ターニャ!」
ターニャの足が、ぴたりと止まる。びっくりした顔でふりむいた彼女は、やがて、にっこりと笑んで叫び返してくれた。
「またね、カート!」
ターニャはどんどん遠くなって、小さくなって、見えなくなった。僕は彼女がくれた花を、胸ポケットに挿した。
風の中で耳を澄ます。微かな水音に導かれて、僕は歩きだした。
色とりどりの花畑の中をずうっと歩いていくと、やがて小川のほとりに出た。
川の向こうは花の精の領地。渡れば帰り道を隠される。
僕は、懐から取り出した懐中時計を、左手に握りしめた。
そして、右の指先でそっと花に触れてから、えいっと地面を蹴った。
かちゃっ
つま先が向こう岸に触れたその瞬間、再び重い音が身体に響いて、僕は思わず目をつむった。
白い花結ぶ道 音崎 琳 @otosakilin
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