4.

 気づくと、バケツは半分以上、白い花で埋まっていた。僕はいったんバケツを下ろし、大きく伸びをした。

 また花畑を見渡して、僕は、さっきよりもあたりが明るくなっていることに気づいた。明るくなっているだけじゃない。靄が晴れてきているのだ。花の上に落ちる僕の影が、さっきよりもずっと濃くなっている。

 花畑のずっと奥には、蒼い影がうずくまっている。どうやらこの花畑は、森に囲まれているようだった。

 いったいターニャは、どちらの方角からやってきたのだろう? 彼女が現れるのは、いつも僕の背後だ。それに、どうやってあんなに視界の悪かった花畑で、道に迷わずにいられたのだろう。

 僕は、手の中のバケツを見た。大きさも形もばらばらな白い花たち。ターニャのための花たち。

「カート! どのくらい集まった?」

 後ろから声がして、白い花を抱えたターニャが現れた。

 自分の摘んだ花をバケツに加えながら、嬉しそうに言う。

「だいぶ集まったのね。よかった、カートのおかげだわ」

 澄んだ声や、つややかな栗色の頭を見下ろしていると、彼女を怪しんでいたのがばかばかしくなってくる。

 思いきって、正直に訊いてみることにした。

「ねえ、どうしてターニャは道に迷わないの?」

 ターニャは、ぴたりと動きを止めた。

「ターニャ?」

 彼女はゆっくり立ち上がった。でも、目を伏せたままこちらを見ない。

 沈黙が降りた僕たちの間を、微かに甘い香りをふくんだ風が吹き抜けていく。

「本当は、秘密なんだけど……」

 ずいぶんとためらってから、ターニャは、エプロンのポケットから何かを取り出した。

「あのね、これを見れば、方角がすぐにわかるの」

 ターニャの手のひらのものを見て、僕は思わず叫んだ。

「その時計!」

 それは、僕が大おばさんにもらった懐中時計にそっくりだった。蓋に花模様の浮彫を施した、あの時計。

 ターニャは笑って首を振った。

「違うわ。これは時計じゃないのよ」

 かちりと蓋をひらく。文字盤のデザインも同じだ。唯一の違いは、針。凝ったデザインの黒い針は一本しかなく、文字盤の端から端まで届く長さだった。

「そっくりだ……」

「これに見覚えがあるの?」

 ターニャは不思議そうに僕を見つめた。僕は答えるかわりに、懐から懐中時計を取り出した。

「あっ!」

 今度はターニャが驚く番だった。

 僕は、懐中時計の蓋をひらいた。やっぱり文字盤は同じ。時間は二時四十分過ぎで、短針と長針が、ちょうど一直線になっていた。そして、僕たちが見守っている間に、秒針が短針の上に重なった。

 たったの一秒間だったけれど、僕の時計とターニャのそれは、全く同じになった。

 僕とターニャは目を見合わせた。ターニャが口をひらく。

「これは、お母さんの形見なの。この針は、どんなところでも我が家を教えてくれるのよ」

「こっちの時計は、僕が大おばさんから、今日もらったばっかりなんだ」

 僕は、解けない謎を封じこめるように蓋を閉じると、懐に時計を戻した。ターニャも、我に返ったようにそれをポケットにしまう。

「バケツいっぱいまで、あともうちょっとだよ」

 ターニャは頷くと、ぱたぱた駆けていった。

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