肉を持つ女

@kuromenbou

第1話 さよならも言わずに

数日前から近所で有名な女が引っ越しをした。それはもう夜逃げのような速さで一晩のうちに、まるで今まで存在しなかったように、跡形もなく消えた。

かの女が何を思って引っ越したのかは俺にはわからないし、知ったことではない。

そも、俺はあの女が苦手だった。

もちろん今でも苦手だが。

だからこそ思い出せば思い出すほどに不思議な体験だったと今にして思う。

あの女がいた三年間は、言葉にするのはあまりにも難しい。

なぜならそれは筆舌に尽くしがたく、つかみどころのない空気のように突拍子がないからだ。

今もどうやって伝えるのか頭を痛くしながら考えているほどに、あの頃は無茶苦茶だった。

だから俺は今でも思い出す。

まるでなにもかもがおかしくなっちまっていたように。

夢の中で夢を見ているように。

あの女と最初にあったことを。













その日は会社も休みで趣味の詰将棋をしていた。確か二十手詰めに悩んでいた時だった。

災厄がやってきた。

「あのう、初めまして。今日から近所に住む〇〇〇です。あ、これうちで作ったソーセージです」

においにやられて挨拶どころではなかった。

「すいません、わざわざ。ええ、ええ、こちらこそよろしくお願いしますはい」

「そのソーセージはちゃんと豚の腸に肉を詰めてつくったものでして」

「はい、はい、わかりました。わかりましたとも。ええ、」

「ではこれを」

「わかりましたから、おえ」

というわけで、吐きそうになりながらむりやり玄関から追い出したのだが、なぜかなかなか帰らず、結局三十分くらい玄関に立っていたので警察を呼ぼうとした

タイミングでやっと帰った。

「あの人誰?」

鍵をしっかりかけたか確認していたら妻が二階からおりてきた。どうやらあの女が帰るまで退散していたらしい。

相変わらずの無表情で「くさいね」と玄関口に落ちてある物を指さした。

「今日引っ越してきたらしい」しっかり施錠し、タッパーに入っているそれを拾った。

拾った物の臭いを直に嗅いだ瞬間、何かが逆流する感覚が分かった。

走ってトイレにいき、すぐに吐いた。

「大丈夫?」さすがの妻も俺を心配したのか吐いている俺の背中をさすってくれた。

「あの女、腐ったソーセージを俺に渡しやがった」

手ににおいが染みついてしまいそうで、それを想像してまたげーげー吐いた。

「くそったれめ、タッパーが仕事をしてねえ」

吐き捨てて「それ」をビニール袋に入れて、においが漏れないように何重も重ねて近くのコンビニのごみ箱に捨てた。コンビニの店員には大変申し訳ないと思うがどうしようもなかった。

またあの女に会わないために遠回りをしながら帰ってきたため、すっかり夜になってしまった。「おかえりー」と間の抜けた声が台所から聞こえる。あんなことの後で食欲なんてあったものではないが、しっかり食べないと後が怖いのは結婚八年目の俺にとっては十分身に染みていた。この女はずば抜けて適当でいい加減でのろまなくせに、こと食事になると人が変わったように口うるさくなる。

なんでもおばあちゃんから厳しくしつけをされていたらしい。その話を聞くたびに辟易するのだが、今回は例のこともあって辟易することすら億劫だった。

「あの人がくさかったのってあのソーセージが原因だったのね」夕飯を食べている最中に突然そんなことを言ってきた。

「食事中に思い出させるな」またあの匂いをおもいだしそうになってえずく。

「お向かいさんだから会う機会も増えるし」

「やめろ、本気で気分が悪くなってくる」

「あら、ごめんなさい。でもなんであの人は腐ったソーセージを渡したのかしら」

「しらないよそんなこと。ただの嫌がらせだろ」

「でもね、あんまりわるいひとじゃなさそうだし」

正気かこの女。思わず妻の方を見る。相変わらず無表情を崩さない。

「なんでそう思うんだ」思わず聞いてしまった。表情を変えず答えてくる。

「上から覗いてたけど、あの人本当に渡したかったっぽいし。なんか、すごく必死だったよ。あんな顔をみるとね、とてもいやがらせ目的じゃなさそうだと思った」

「だったらただのいかれた野郎だ。いいか、とにかくあいつとはかかわるなよ。近所の奴らにこっちまで変な眼で見られる」

そうかなー、と聞いてるのか聞いてないのかよくわからない返事をした。

「わかってるのか」

「いやだって、すごく美人じゃん」

「人を見ためで判断するなよ」

「そっくりそのまま返すね」

「...」

「そういうとこだよ」

まさか言い返されるとは思わなかった。というか八年目にして初めてだった。何も言い返せなくなり、食べ終わってすぐに自分の部屋に退散した。

「くそが」言い返せなかったくやしさで枕に八つ当たりをする。

数発殴って少し落ち着いた。

「枕がかわいそうだ」

独り言を言って、仰向けになる。

「美人か」

なんとなく思い出してみる。確か黒髪だったよな。身長は自分よりもでかかったな。たしか俺、180あるんだけどな。なんてとこまでを考えて、やめた。

「もうあの臭いしか思い出せない」

あほらしくなって、おもわず笑ってしまった。

「どんな顔をしてたっけな」笑いながら布団に入る。

明日は仕事だ。

もう寝よう。

布団にもぐってふと、あしたの朝のことを考えた。

そして、そういえばお向かいだと言ってたことを思い出す。

「.........寝る」

いやなことが頭によぎったが、すぐに思考を放棄したのだった。

これがあの女とのファーストコンタクト。

生涯一で最悪な出会いだった。



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