類型
中国における宦官の始まりは、「自分の女に男が近づくのを厭う君主の好色さや嫉妬」であると言ってもよいでしょう。要するに宦官は皇帝がなくば存在しえないものだったのです。
もっとも、私が今読んでいる本で上記の説と相反する説が唱えられてもいます。内容はざっくり説明すると、「漢代の後宮は男子禁制ではなかった」というものです。具体例を細かに挙げて述べられているので、私個人としては納得してしまいました。漢代でさえ男子禁制でなかったのなら、その後はともかく前の時代もあるいは……。ということになるでしょう。気になる方は「アジア遊学 東アジアの後宮」を手に取ってみてください。
これは個人的な意見ですが、宦官の存在意義は「皇帝が全幅の信頼を置ける手先たりうること」であるような気がします。だからこそ、君主の女の世話を任されもする。まあいずれにせよ、宦官は皇帝(の後ろ盾)なしには存在も存続もできない者たちであることには変わりないですね。
なにはともあれ、時の流れとともに宦官が本来の役目以外の役割も果たすようになり、その人員が増加すると、皇帝を操り、果ては殺害する者まで現れました。一方、玄宗の腹心である高力士のように、絶大な権力を掌握しながらも、上辺だけでない忠誠を尽くした者もいました。そんな振れ幅が大きい宦官を、参考文献では四つのタイプに分類していました。
①奴僕型
・宦官のプロトタイプであり大多数です。宮廷のあらゆる雑務をこなし、皇帝をはじめとする皇族に仕え、仕事が終わった後も高級宦官の世話をします。彼らはまさしく牛馬のごとく働かなければならなかったそうです。どのくらい働きづめだったのかというと、自分が濡らした(去勢されると排尿のコントロールが難しくなるため、宦官は慣れないうちはしばしば尿を漏らしました。また、宦官は多忙であるため、トイレに行く暇もなかったという事情もあります)下着や服を洗濯する暇もないぐらいだったとか。そのため宦官からは臭気が発し、宮廷の人から嫌がられていたそうです。
②手先型
・宦官は(養子を取ることはありましたが)子を残さない、寄る辺ない立場です。そんな彼らは皇帝にとって、使い方を間違えなければ、官僚や人民を支配し、自らの権力を保つための最高の道具にもなりました。彼らは皇帝の目となり耳となり手足となって働いたのです。
・また、宦官は一般の官僚とは異なり、昼夜を問わず皇帝と行動を共にする存在でもありました。宮殿の「内」には入り込めない一般の官僚と、常にともにいる、しかも孤独な――自分以外に頼る者の無い宦官。どちらを皇帝が信頼するかは明らかでしょう。しかも宦官は、皇帝を肉親との確執や暗殺などの危険から守ってくれる存在でもありました。歴代の皇帝には、宦官を深く信頼し、父と呼び慕った者もいたそうです。
③参政型
・朝廷において正式に権力を得た宦官はこのタイプに属します。高力士がこのタイプの典型です。もっともこのタイプの存在は、大臣をはじめとする朝廷の官僚たちとの確執や争い――つまり宮廷の権力闘争の火種ともなりえます。まあ、宮廷って宦官がいなくても派閥争いが起こる場所なんですけれどね。日本の朝廷だって宦官がいなくても権力闘争起こりまくっていましたし。
・なにはともあれ、このタイプは皇帝が宦官=宮殿の内と、官僚=宮殿の外をコントロールする力量がありさえすればさほど問題になるものではありません。もっとも、内と外のバランスが崩れてしまったら、後述する「元凶型」となり、台風の芽となるかもしれないのですが。
④元凶型
・中国史をたびたび騒がせてきたのがこのタイプです。このタイプは皇帝にやる気がないとか、幼帝が即位したなどの事情により政治の実権を握り、天下をほしいままとするのです。もっとも、いくら異常事態が発生したとはいえ、宦官が政治の実権を握るには、それを可能にする土壌がなければ不可能でしょう。そういった意味では、③の参政型の派生形とも言えます。
・このタイプの宦官たちは、皇帝が「政治的に無能力だったから」こそ存在できた者でもあります。よって、奢侈を尽くし遊興や快楽づけにすることで、皇帝が暇を持て余し勉学に目覚めないよう心を配っていたのです。
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