殺人と距離 その①物理的距離
標的の何メートルも上空から何万もの人間、それもほとんど民間人を殺す爆弾を敵国に投下した人間は社会に受容される一方、他国の村で赤子や女性を含む数百人を虐殺した人間は声高に罵られる、なんてことがこの世では起っています。あえてどこの国の出来事とは明言しませんし、その国だけに存在する現象ではないので、明言したところで無意味なのですが。
でも不思議な話ですよね。数百人と何万人なら、「数」だけで言えば後者の方が圧倒的に罪深いのに。ですが原爆投下とミライ村の虐殺には圧倒的な「距離」の違いがあります。そしてそれ故に、人々の反応は対照的と称してもよいほどかけ離れているのです。という訳で今回からはしばらく、殺人と距離について見て行きましょう。まずは、肉体と肉体の、つまり物理的な距離についてです。
最大距離の場合
最大距離=双眼鏡、レーダーなどの機械的手段を使わなければ対象を認識できない距離の場合、殺人者は人を殺すことに何らの困難も感じないし、トラウマになることもないようです。もっとも、物理的な距離のみが免罪符となっているのではありません。集団免責や間に機械が介在していること(これだけの距離がある殺人は、機械を介さないと不可能でしょう)が組み合わさることで、強力な効果が生じるようです。
なお、軍では軍事目標を爆撃する際の(敵国の)民間人の死傷を「付帯的損害」と婉曲に称するようです。ここでは死傷者はただの「損害」であり、倒壊した商業ビルとかと同等の、人間ではない存在なのですね。
長距離の場合
長距離=目視はできなくとも、狙撃銃や対戦車ミサイル、戦車の火砲といった特殊な武器を使わなければ殺せない距離の場合、殺人者はやはり上に挙げた距離などの条件に守られています。それにも関わらず一対一の殺人には奇妙な嫌悪感と抵抗感が存在し、敵の指揮官しか殺さないことで自分の行動を合理化したりする者も出て来るのだとか。
事実、第二次世界大戦中、アメリカ軍が狙撃した敵機の40%は僅か1%のパイロットが狙撃したものでした。圧倒的多数のパイロットは、発砲さえしなかったそうです。また、二つの世界大戦や朝鮮戦争終結後、アメリカ軍の兵士は狙撃兵から慌てて遠ざかったのだとか。戦争で困難な任務を果たした彼らが、穢れた存在であるかのごとく。
中距離の場合
敵を目視できるが、自分が与えた傷の程度は確認できずまた犠牲者の声や表情は分からない距離の場合は、殺人者はまだ殺したのは自分ではないと否認できます。なぜなら、他にも敵に向かって攻撃している友軍兵は沢山いるからです。敵を殺したのは自分(が撃った弾)ではない、という認識はかなり典型的なものなのだとか。
後に詳細に触れる予定なのですが(そればっかりですね)、兵士は敵を殺す際以下のような一連の心理的段階を経験するそうです。反射的もしくは自動的だったと表現されがちな殺人の直後、多幸感と高揚が訪れます。しかし続いて罪悪感と自責の念、激しい悔恨などに襲われるのです。なお、罪悪感と自責の念の深さや長さは距離と密接に関係していて、中距離では多幸段階が多く見られるそうです。
また、戦術的に余裕がある場合はよくあることなのですが、兵士が自分が殺した相手の様子を見に行ったりすると、トラウマが悪化するのだとか。距離を心理的なクッションとしたら、犠牲者の様子を見に行くというのは自らクッションを投げ捨てるに等しい行いですからね。
手榴弾距離
手榴弾距離とは数メートル~35メートルほどの距離を指します。物理的距離を考える際、手榴弾距離という語が使われるのは手榴弾を使って人を殺す場合のみなのだそうです。第一次世界大戦の塹壕戦では、ライフルよりも手榴弾が好んで使われたそうです。なぜなら、手榴弾ならば自分が殺す相手の姿を見たり、声を聴かなくてもよいから。犠牲者の声が聞こえるほど近くにいたら、手榴弾が爆発する際に自分も巻き添えを食らいますよね? つまり、手榴弾を使う殺人では、自ずから対象との間に距離ができる。そういうことなのです。
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