戦場の心理 その③憎悪
今回は憎悪についてです。
現代社会では案外「危険」が求められています。もちろん適切な量に限り、ですが。例えばジェットコースターとかバンジージャンプとか、もっと身近な場合だとホラー映画といった形で。ですが、上記の「危険」はきゃっきゃと楽しめる者でも、他人の攻撃性と憎悪に直面するのは避けようとするでしょう。
心理学者にとってのバイブル「精神障害の診断と統計の手引き」の第三版によると、心的外傷後ストレス障害はその原因が人為的な物である場合、より重くより長期に渡るそうです。だから、人間が同じ人間の攻撃性と憎悪を避けようとするのは、当然のことではあります。
統計学的には他人の悪意よりも、病気や事故が原因で死んだり負傷をする確率の方が高い。それでも、人間が恐怖し嫌悪するのは病気や怪我ではなく、同じ人間による略奪や破壊行為なのです。事実、ナチスの強制収容所でこれ以上はない憎悪と侮蔑――民族丸ごと虐殺され抹殺されかけるだなんて、これを上回る悪感情がこの世に存在するでしょうか――に晒され続けた生還者たちは、収容所で負った心の傷に生涯苦しみました。
意図的で明白な他者の敵意と攻撃は、それを向けられた人間の心どころか身体の健康までも損なうことがあります。でもそんな、誰かから向けられる攻撃性と憎悪に満ち満ち、しかも避けようがない場所がありますね。そう、戦場のことです。
一般的な精神構造の兵士は殺人への抵抗感と同じくらい、自分が誰かに殺される――それぐらい誰かが自分を憎んでいるという事実にも抵抗感を抱くそうです。敵の明白な行動に晒された兵士は一般的に、激しいショックを受け、驚き、そして怒るのだとか。
例えばあるベトナム帰還兵は、初めて敵の銃撃に遭遇したとき「どうして自分を殺そうとする? 自分が何をした?」と感じたのだそうです。ベトナム戦争を体験したあるパイロットは、敵が「自分を」狙っているのに気づくと、やはり「自分が何をした」と感じ、ついで「お前(=敵)など大嫌いだ」という怒りが沸き起こったのだとか。そうして怒りのままにその敵をふっ飛ばした。もっともベトコンの視点では、「来た」時点でアメリカ兵は殺すべき存在だったでしょうが。
戦略や戦術の分野では、上述の憎悪の衝撃と影響は概ね見過ごされてきました。その証拠に、数多の戦術家たちは長距離からの攻撃によって敵軍の戦意を喪失させる、とい考えを提唱してきました。が、空爆や爆撃が心理的に効果があるのは、それが憎悪と結びつく前線のみなのだそうです。前線では爆撃の後は普通、歩兵攻撃=敵の憎悪を面と向かって浴びる脅威が控えていますから。
事実、第二次大戦後のアメリカによる戦略爆撃調査によると、爆撃を受けるほどドイツの軍需産業は増大し、民間人は降伏してやるものかと決意を固めたのだとか。つまり近距離からの攻撃を伴うかその可能性がある場合を除き、爆撃だけでは無効どころか却って敵の戦意や闘争心を高めるかもしれないのです。
無差別な砲撃や空襲を耐えられる人々も、近距離からはっきり「自分」を狙われるのには耐えられない。だから現実にはまだ何も起こっていなくとも、その可能性に慄き、難民となって逃げだす。歴史上繰り返し、現在進行形で起っている現象です。
さて。皆さんは「学習性無力感」という言葉や、それを発見した実験のごとをご存じでしょうか。
1967年、ある心理学者は檻に閉じ込めた犬に電気ショックを与える実験をしました。犬たちは当初は、痛みを伴う電流から必死に逃げようともがきます。しかしどうあっても逃れられないと「学習」してしまうと無気力状態に陥るのです。そうなってしまうと、たとえ逃げ道が提示されていても、犬たちは逃げようとしなくなります。
一方、無気力状態に陥る前に逃げ道を与えられた犬は、再び逃げ道が与えられたらただちに脱出します。また「身体はトラウマを記憶する」によると、電流によってトラウマを負った犬たちの体内では、正常な状態よりも遙かに多くのストレスホルモンを分泌するそうです。
上記の反応は人間においても起ります。つまり無力を学習してしまった人は、逃げ出す機会があったとしても、新たな選択肢を試すのではなくよく知った苦痛の中に身を置いてしまうのです。また実験に使われた犬たち同様、現実の危険が去った後もずっと大量のストレスホルモンが分泌されます。もう存在しない脅威から逃れるために。その影響は動揺やパニックとして現れ、長期的には健康を大きく損ないます。
もっとも、同じような体験をしても学習性無力感に陥る人とそうでない人がいます。何が両者を分けるのかというと、トラウマの原因となりうる体験をした時、我が身を守るため行動したり、「何か」をできたか。これは極めて重要なことなのだそうです。
加えて、丁度予防接種のようにほどほどの憎悪や攻撃に慣らすこともまた有効な手段なのだとか。軍学校の鬼教官とか軍隊につきものの新兵いびりは、ある意味では兵士たちのプラスになっている側面もあるのですね。逆を言えば、優しい教師に教えられ、やはり優しい先輩に囲まれて育てられた、なんて部隊を戦場に投入したら、あっけなくメンタルが崩壊するのかも。
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