戦場の心理 その①恐怖

 前回までは戦場、もしくは危機的状況に置かれた人が、自らを取り巻く世界をどのように知覚し記憶するか述べていきました。それがいかに平時とは違うものなのかも。今回からは再び『戦争における「人殺し」の心理学』に戻って、戦闘中やその後の兵士の心の中を覗いていきましょう。まずは恐怖についてです。


 戦場の兵士が何を最も恐れるだろうかと質問されると、多くの人は「死ぬ・負傷すること」と答えると思います。映画や小説でもそう言われていますしね。ですが死と負傷への恐怖と精神の傷の繋がりを実証しようとした研究は、尽く失敗に終わったそうです。

 ある研究によると、戦闘を体験していない兵士を対象としたインタビューだと、戦闘で最も恐ろしいのは死と負傷だという結果になったそうです。しかし戦闘を経験した直後の兵士に、何が最も恐ろしかったかと尋ねると、「他の人間を死なせること」と返されることが多かった(※)のだとか。この結果から、この調査を行った研究者は、戦闘体験は死や負傷への恐怖を減少させると結論付けたそうです。でもこれ、ただ単に「いざ体験してみたら想像と違った」というだけのようにも感じられますが。

 勿論誰だって死んだり怪我をするのは怖いし、重症を負えばトラウマになることもあるでしょう。ですが戦場で敵と対峙している兵士たちを最も苦しめているのは、自分は敵を殺すという恐ろしい義務を果たせるのか、という恐怖なのだそうです。そしてこの恐怖は、次回以降で述べる予定の疲労や憎悪に嫌悪、罪悪感といった諸々と手を取りあって、兵士を狂気に追い込んでいくのですね。

 また別の調査結果によると、兵士は却って危険が増す場合でも戦闘、ひいては殺人を強いられる状況から逃れようとすることがあるそうです。たとえば、仮病を装って防衛施設もある戦場の持ち場から、敵の銃火に晒されている救護所に駆け込むとか。


 ところで、戦争では人を殺す必要がない者も、敵を直接殺さなければならない者と同等の苛酷な条件に晒されますよね。例えば戦闘中の水兵に、偵察に向かう斥候に、衛生兵、将校。加えて近代以降の戦争ならば戦略爆撃や、砲撃に晒される民間人や捕虜など。ですがこういった人たちは「殺さなければならない者」とは違って、遙かに精神を病む率が低いそうなのです。ほとんどないと言ってもよいぐらいに。

 例えば第二次世界大戦において、ドイツ人は何ヶ月も何年も、昼となく夜となく爆撃の恐怖に晒されていました。この恐怖は、戦場で戦う兵士たちが味わったものと勝るとも劣らないものでしょう。ですが後の調査によると、精神病患者の発生率は平時とほぼ変わらなかったのだとか。精神病院は爆撃目標から遠く離れた場所にあるのが普通だったのだから、実際には心を病んでなくとも精神病院に入れられるよう振る舞えば、生き残る確率も上がっただろうに。

 1949年の空襲による精神的影響の研究は、以下のように結論したそうです。空襲が引き起こした「ある程度長期的な」精神疾患はごく僅かなもので、しかも発病した人々は「基本的に元々素因があったようだ」と。だったらなぜ、戦場では心を病む兵士が後を絶たないのでしょう。これには、


1.殺人を期待されている(=殺す、殺さないを自分で決定しなければならない)という責任感

2.自分を殺そうとしている者の顔を見る=憎悪を浴びる


 というストレスが関係しているそうです。確かに爆撃による民間人の被害者は、このどちらのストレスとも無縁ですね。なお、この「顔を見てしまう」というファクターは「殺す側」にとっても極めて重要です。

 二十世紀以降の海戦による精神的戦闘犠牲者はほぼ皆無なのだそうですが、それは「敵との間に距離と機械が介在していて」、「自分は人間を殺していないと思いこむことができる」からなのだとか。一人の肉眼で確認できる範囲にいる敵を攻撃するのと、(もちろん敵が載っている)船に砲弾を浴びせるのでは、後者の方が犠牲者は多くなるかもしれません。が、あくまで狙ったのは船という無機物ですものね。これが例えば対空砲で航空機を狙う場合は、目標は大抵空の一点に過ぎないので、攻撃するのはもっと簡単でしょう。その「点」に人間がいることを、頭で理解していても。


 敵の顔を見なくとも良いということは、直接手を下す必要がないとも言い換えられます。そしてそれ所に、将校(+衛生兵)も一般の兵士と比較して精神を病まずに済んでいるのだそうです。

 ほとんどの戦争では、指揮官が戦死する割合は彼の部下が犠牲になる割合よりも遙かに高い。けれども、精神を病む割合となると逆転するのです。例えば第一次世界大戦時のイギリス軍では、将校が精神的戦闘犠牲者になる割合は、部下の半分だったとか。

 もちろん将校は、部下よりも敵を殺す必要性や自分の立場というものを理解しているでしょう。持っていて然るべき地位に見合った責任感や、制度上の支援。勲章などで特別扱いされているという事情も、将校たちの心を守る防御壁になっているでしょうが。


 何はともあれ、戦場にはつきものの精神的犠牲者が出ない状況はもう一つあります。上でさらりと述べた、敵への斥候です。

 現代の戦争では斥候の任務は敵の内実を探ることで、そのためには敵に発見されないようにすることが重要です。加えて、斥候の兵士たちは、敵と遭遇したら交戦せずに逃げろと命じられてもいます。つまり殺し殺されるという苦痛とは遠い所にいるのが斥候なのですね。

 襲撃や待ち伏せを目的とした斥候についても、事前に綿密な計画が立てられ練習(=一種の条件付け)が行われるし、実際に殺人を行う時間は非常に短いという事情から、やはり心の傷にはなりにくいようです。またそもそも斥候に選ばれるような特殊部隊に所属する兵士には、サイコパス的な性質を備えている者が集中して見出されるそうです。

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