たたかう/にげる/いかくする/こうふくする

 兵士が敵に出会った際、取りうる選択肢といえば


 →たたかう

 →にげる


 のどちらかだけのような気がしますが、実はあと二つ選択肢があります。それは


 →いかくする

 →こうふくする


 です。同じ種の動物同士の争いでは、多くの場合は逃避か威嚇が選ばれます。例えば鶏の場合でも、逃避を選択しなかった場合、本能的に威嚇行動に移りますが、即座に相手に危害を加えようとはしないのです。威嚇の目的は視覚的、聴覚的に自分が強いと相手に思わせることにあります。猫ならば毛を逆立てたり、シャーシャーと普段とあからさまに違う声を出しますよね。

 同種の敵を威嚇によって退けられなければ、取るべき選択肢は戦うか逃げるか降伏するかの三つです。このうち、圧倒的に採用される確率が高いのは「降伏する」になります。動物の場合は身体の弱い部分をわざと曝け出すなどして、降参の意思を示すのです。人間も降伏する時は、武器を捨てたり両手を頭上に上げる=無力な状態であることを示しますよね。

 雌を巡る争いなりで対決した動物の雄のうち一方が、相手に降参したとしましょう。降参された側は、相手を殺したり危害を加えたりはしません。そうすれば降参した側は死を避け、今回は雌をゲットできなくてもいずれ自分の子孫を残せるでしょう。つまり「降伏」とは種の存続に必要な仕組みなのです。どこかに敵対した雄は絶対に殺す種がいたとしたら、遺伝的多様性が低くなり、環境の変化なり伝染病なりでいずれ滅びてしまうでしょう。

 

 とはいえ、世の中にはどうしても譲れない場合もあります。要するに降参も逃避もせずに戦う道を選んだとしても、同種の敵との戦いで死に至る可能性は低いのです。

 例えばピラニアやガラガラ蛇はどんな相手にも噛みつくけれど、敵が同種の場合はピラニアならば尾で打ち合うだけ。ガラガラ蛇ならば取っ組み合うだけで、ある時点でどちらかが敵に恐れをなして争いをやめます。なお、人間の場合も世界中のほとんどの文化にも威嚇・疑似闘争・降伏のパターンがあり、そのため実際に行使される暴力はごくごく僅かなレベルに留まっているのだそうです。もっとも、儀式的な攻撃の際に負った傷が原因で命を落とすこともあるでしょうが。

 もちろん、中には他人を快楽目的で殺すようなサイコパスも存在します。それでも抗争に加わる大多数の人間にとっては、体面や示威に利益、損害の抑制の方が大事なのです。

 要するに、戦争においても、威嚇――いかにして自分を強く見せるかは、極めて重要なことなのです。威嚇に成功すれば、相手の方が降参してくれるかもしれませんからね。アメリカの南北戦争のウィルダーネスの戦役では、大声で叫んで自軍が大軍であると敵に錯覚させようとし、実際両軍の様々な部隊が大声に怯えて持ち場から逃走したのだそうです。


 人間は恐怖に直面すると理性ではなく本能で――他の動物と同じように考えるようになります。そして人間以外の動物の世界では、声が大きかったり身体が大きい者こそが強者なのです。もっとも人間にとっても身体の大きさは力と結びついています。だからこそ近代以前の軍隊では羽飾り付き兜なんてものが作られていたのでしょう。

 それに、有史以前から戦士たちは実戦に入る前やその最中に声を上げ続けてきました。意識しているかしていないかは関わらず、自分で自分を奮い立たせ、味方と励まし合い、敵の叫び声をかき消すために。

 このような視点で考えると、軍楽は鬨の声の延長線上にあるものと言えるかもしれませんね。たとえば朝鮮戦争中の砥平里の防衛戦では、フランス軍がサイレンを鳴らし大声でわめいたり、手榴弾を正面や側面に投げつつ銃剣で突撃すると、数で勝っていた中国軍はある時突然回れ右をし、逃走したのだそうです。さて。そんな大切な「威嚇」にうってつけの手段がありますね。そう、火薬のことです。


 火薬は圧倒的な音響と威嚇の力で、戦場を制覇しました。たとえば長弓と銃腔に旋条のないマスケット銃ならば、長弓の方が武器として遙かに優れています。それでも弓は銃に取って代わられました。怯えている人間に向けて弓をひゅんひゅん飛ばすよりも、マスケット銃をバンバン撃つ方が、より恐怖心を煽れるからです。それに銃は敵を威嚇したい――言い換えると敵に危害を加えたくないという欲求を満足させてくれます。

 記録に残っている限りでは1860年代から、兵士はただ発砲するためだけに空に向かって無駄撃ちする傾向があると知られていました。兵士たちは感情の物理的なはけ口として、たとえ敵に全く危害を加えられない場合でさえ、発砲したいという衝動を感じることがあるそうです。


 ある研究によると、先込め式マスケット銃は一分あたり百人ほどの殺傷数を持っているそうです。しかしナポレオン戦争や南北戦争の時代は、マスケット銃では平均して一分に一人か二人しか殺せなかったとか。期待できる殺傷能力と結果が大きく乖離していたのには、兵士の側に原因がありました。訓練で使用する的ではない、確かに生きている敵に対峙すると、兵士の圧倒的多数が敵の頭上目がけて発砲するという、闘争ではなく威嚇行動を行っていたのです。

 また別の研究によると、イギリス兵の小集団が遙かに数で勝るズールー人に包囲され、密集する敵の大軍に一斉射撃を繰り返したというのに、一人を倒すには約十三発の弾丸が必要だったのだとか。インディアン戦争のある戦いでは、命中率は二五二分の一、つまり約0.4%だったそうです。19世紀のイギリス人対ズールー人、同じく19世紀のアメリカ人とネイティブアメリカンの戦いでもこの結果だったのだから、大多数の人間は同じ人間を殺すことへの本能的な抵抗感を持っていると言い切っても良いでしょう。

 ただこの抵抗感は、訓練次第で克服できるし、条件次第で違うものでもあります(例えば歴史上の戦闘では、どちらかが勝利して敗者を追っている時=つまり殺される側が殺す側に背を向けている時が、主に死者が出る時なのだそうです)。そのため、高度な訓練を受けた近代的な軍隊とほとんど訓練されていない部隊(ゲリラなど)が交戦すると、後者は殺人への抵抗感ゆえに有効な攻撃ができず、前者の有利な状況になる、ということもあったそうです。


 とは言っても、戦場で敵を攻撃しなければ罰を受けるのでは、と思われる方もいるかもしれません。しかし余程銃口を高い位置に向けない限りは、狙いが外れたのはわざとかどうかなど分からないのです。そのため、空に向かって発砲するとまではゆかずとも、故意に的を外して不服従の姿勢を示した者もいるでしょう。

 ある傭兵は中米の国ニカラグアのコントラ戦争の際、女子供も殺せと命じられて川岸で民間人を待ち伏せしていました。そしてまさしく一般人を乗せた船が通っても、彼も仲間も舟の遙か上目がけて発砲するだけで、一人も殺さなかったそうです。

 その傭兵は、仲間と事前に「殺すのはやめよう」なんて一言も相談していなかったそうです。けれども訓練を受け、発砲を命じられた兵士全員が、申し合わせたように失敗を装って殺人を避けた。こういった不服従は、戦場に銃が登場してから繰り返し行われていたのでしょう。そしてもちろん前回述べたように、敵の頭上めがけてどころか全く発砲しない、威嚇よりももっと驚くべき行動をする兵士もいます。

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