酒 その①

 ロシアの酒といえばあれですね。ウォッカ。その他にもロシアには伝統的なアルコールが多数あるのですが、でもその前にロシア人と飲酒の関係について述べさせてください。また、今回も度々触れてきたロシアの諺の本を参考にしています。


 さて。ロシア人酒好き伝説において、触れずにはいられない言葉があります。


「ルーシにとっては飲むことが楽しみなのだ。私たちはそれなしには生きてはいけない」


 この言葉は、どの文献が、誰の言葉として伝えていると思いますか? 「ロシア」ではなく「ルーシ」という名称が使われているから、少なくとも近代の人物ではありませんね。

 正解は、もうすっかり皆さんおなじみの? ウラジーミル聖公です。原初年代記は、国教とする宗教を選ぶにあたってユダヤ教、イスラーム、東方正教、ローマ・カトリックの四つで悩んでいたウラジーミル聖公が、東方正教を選ぶまでの逸話を伝えています。という訳で、飲酒に関わるイスラームの件だけ、超要約でお伝えしましょう。


 986年、ウラジーミル公(まだ聖公じゃない)の許に、イスラームのブルガル人たちがやって来て、公にムスリムになるよう勧めました。使者たちは「イスラームの教義ではこの世では思う存分エロいことしてもOKだし、あの世では超絶美女を妻にできるよ!」と口説いてきました。ブルガルの使者の言葉に、この時(分かっているだけでも)五人の妻と八百人の妾を持っていたというウラジーミル公はグッときました。イイこと(意味深)をはばかることなくできる。

 が、ムスリムになると割礼しなければいけないし、豚肉を食べてはいけないと聞くとまじかと思いました。ですが最も受け入れられなかったのが、イスラームは飲酒を禁じるということでした。ウラジーミル公は結局「ルーシにとっては飲むことが楽しみなのだ。私たちはそれなしには生きてはいけない」と、イスラームへの改宗を拒否しました。


 という感じです。余談ですが、ウラジーミル聖公の改宗前の妻の一人はブルガル人だったそうなので、その点を踏まえればウラジーミル聖公(つまり当時のキエフ・ルーシ)にブルガル人が布教にやって来たのも、唐突な印象は受けないでしょう。

 また、聖公が言ったとされる言葉は伝えられる過程で、「ルーシの楽しみは飲むことだ」「ルーシは飲むのが好き」と簡略化されました。つまり、ロシア人の酒好きは少なくとも十世紀から続く、筋金入りのものなのです。ウラジーミル聖公が正教を選んだのは飲酒云々だけじゃなくて、政治的な事情も密接に関わっている――というか、政治的な事情の方が主だったでしょうが。だいたい正教だって、斎戒しなきゃならない期間がありますから、それはそれでキツイものがあります。本当にウラジーミル聖公が飲食物の自由度で国教とする宗教を選んだのなら、スラヴの神々を崇め続けたんじゃないですかね。

 でもやっぱり、禁酒はウラジーミル聖公がイスラームを選ばなかった理由の一つには入っているのではないでしょうか。酒がない宴会って、味気ないですものね。上記の逸話を信じるのならば、ウラジーミル聖公の中での重要度は「酒が飲めない>エロいことしほうだい」だったということになりますし。


 ……なにはともあれ、ロシアの酒に関することわざは、飲酒に肯定的なものが多いです。「鶏だって水を飲む(=人間が酒を飲むのは当然)」「生きているうちに飲め」「飲めるうちに飲め」「飲んだら死ぬ、飲まなくても死ぬ、どうせ死ぬなら飲んで死ぬほうがよい」など。でも中には「飲むのはよいが、飲まないほうがもっとよい」「酒は罪をつくる」「酒と理性はなじまない」「酒は理性の友ならず」などの、飲酒に否定的なことわざもあります。

 時代が下っても、ルーシの酒好きは相変わらず。十六世紀から盛んになっていった居酒屋・公衆酒場であるカバークは十九世紀には大衆化し、以前は祭日しか飲まなかった庶民を酔いどれの道に進ませました。つまり、庶民の祭日の飲酒と平日の禁酒の交替というリズムが崩れ、アル中への道まっしぐらとなってしまったのです。

 ソ連時代になり、品不足や禁酒令のせいで酒が手に入らなければ、庶民は密造してまで酒を飲みました。どうしても酒が手に入らなければ、アルコールが含まれるからと、安物のオーデコロンまで飲む者もいたそうです。

 ソ連が崩壊しても、ロシア人から酒を取り上げることは誰にもできず、現代に至っています。もっともこれには、乾杯を上げたからには器の中の酒は飲み乾さなくてはならないという、ロシア人の酒の飲み方も関係しているかもしれませんが。


 現代においても意識されているかどうかは分かりませんが、かつてのロシアにおいて、杯の酒を飲み乾すことは一種の呪術的行為でした。杯とは家の暗喩であり、なみなみと酒が注がれた杯が富と幸福と安泰に満ちた家ならば、中に半端に残った酒は悪と悪意を意味する。だから、悪を残さないためにも酒杯の中に酒を残してはならない。ましてそれが誰かの健康を祝する酒であったら……。

 という事情があるのです。ロシアと酒の関係は複雑ですね。

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