魚 その①

 今回からは魚についてまとめていきます。現代ロシアにおいては魚料理は肉料理の影に隠れがちですが、歴史的には魚はロシア人にとって極めて重要な食材だったのです。

 ロシア人――というかスラヴ人と魚の関係の歴史は古く、川べりから発掘される集落の遺跡からは魚の骨や釣り針、釣り竿が見つかっているそうです。

 また中世の年代記によると、既に十二世紀には豊富な漁獲量で知られる村々があり、租税を魚によって納めることもあったのだとか。と、言ってもキエフ・ルーシでは毛皮を税として納めることもあったのですから、魚が税金の代わりになっても特別おかしなことではないような気がしますよね。

 なお、十世紀前半、イーゴリ一世の時代にはてんの毛皮やビーバーなどの獣皮、蜂蜜、蜜蝋を貢税ダーニとして取り立てていたそうです。左記の品に捕虜奴隷を加えた商品・・は価値が高かったので、黒海経由でコンスタンティノープルにもって行けばそれなりの値段で売れたのです。


 ルーシの貨幣にはグリヴナという棒状もしくは六角形に加工した銀の他、ノガタ、クナ、レザナ、ヴェクシャというものがありました。各々の関係は、時代や地域による差はもちろんあったのですが十二世紀以降では、一グリヴナ=二十ノガタ=五十クナ(レザナ)=百五十ヴェクシャだったそうです。

 もともとの意味ではグリヴナは金や銀の首飾り、クナは貂やリスの毛皮、ヴェクシャはリスを意味します(現代ロシア語ではリスはビエールカ)。クナとヴェクシャは、毛皮が通貨代わりだった頃の名残なのだそうです。ちなみに、ノガタは良貨を意味するアラブ語に由来すると考えられていて、レザナはアラブのディルハム銀貨を細かく割って切片レザナにして使用したことに由来しているのだとか。

 なお、グリヴナに最初に言及したのは1130年に綴られた文書で、私が知っている限りでグリヴナが登場する最初の事件は、以下の通りです。

 

 ノヴゴロド公に任じられていたヤロスラフ賢公(この頃はまだ賢公じゃない)が1014年に、キエフの父ウラジーミル聖公に送るはずの貢税2000グリヴナを停止。ヤロスラフ賢公は自分の従士団ドルジーナ(公の戦士、協力者、家来のこと)に毎年1000グリヴナを分け与えていたのですが、キエフへの貢税をやめて浮いた金を何に使うかというと――お察しという感じですよね。

 このため父子の争いは避けられないものとなったのですが、戦の準備をしている最中にウラジーミル聖公は死亡しました。が、それで一件落着とはいきませんでした。妻の父であるポーランド王(※ヤロスラフ賢公の同母姉妹に求婚して断られたことがある)の力を借りてウラジーミル聖公に反抗しようとして失敗したため、キエフで幽閉されていたスヴャトポルク一世がキエフ大公となったのです。

 スヴャトポルク一世はまず、聖公のお気に入りの息子だったというボリスとグレブに刺客を放って殺害しました。このことからスヴャトポルク一世には「呪われた」という仇名が付いたのです。ちなみに、無抵抗で殺されたボリスとグレブは後に列聖されています。ヴァイキングの資料によるとボリスを殺ったのはヤロスラフ賢公の可能性もあるのですがね。で、そんなこんなで前述の姉妹から父の死を知らされたヤロスラフ賢公とスヴャトポルク一世の争いが始まるのです。


 なお、なぜここでヴァイキング(ロシア語ではヴァリャーグ)が絡んでくるのかというと、リューリク朝の開祖のリューリク(※半分伝説の人物ではある)はヴァイキングですし、ウラジーミル聖公は兄から位を奪う際に、ヤロスラフ賢公もスヴャトポルク一世との争いの際にヴァリャーグ傭兵を雇ったなど、歴史的に深いつながりがあるからでしょう。

 ヴァイキングはどうしても海の荒くれ冒険者的な感じにイメージされがちですが、故郷スカンディナビアでの彼らは普通の自由農民であり、出稼ぎ労働的な感じで傭兵をしていたのです。どこかでヴァリャーグがロシアの歴史に及ぼした影響について述べたいと思っていたので、魚とは一切関係ないけれど長々と語ってしまいました。


 話しを魚に戻しますね。歴史的に魚は健康によい食べ物と見做されていて、「魚が食卓にあるということは家族が健康な証拠」という言葉さえあるほどでした。しかも魚は、肉食が禁じられる斎戒期間でももっとも厳しい精進日以外では食べても大丈夫という、宗教的にも重要なタンパク源だったのです。ロシアは川や湖沼が多いので、淡水魚が非常に豊富に獲れます。こういった自然環境もまた、魚が歴史的に重要な食物となった一因です。

 ちなみに、ロシア人の食卓に海の魚が登るようになったのは、十八世紀のピョートル大帝の時代になってから。しかしそれでも海の魚はなかなかロシアの食卓に浸透しなかったそうな。日本のように海に囲まれているのでもないロシアの人々にとっては、一部地域を除けば魚といえば淡水魚だったのです。


 魚は傷みやすいので、二十世紀までは塩漬けか干し魚として流通していました。しかしその一方で新鮮な魚を供給するための試行錯誤も、特に帝政時代から繰り返されてきていました。

 冬に売られる魚は冷凍ものが多かったのですが、冷凍庫なんて当然ない時代にどうやって冷凍していたのかというと、秋口に獲った魚を冬まで生け簀で生かし、水の表面に氷が張る頃になると魚を生け簀から取り出して氷の上で凍らせるのです。長距離を運ぶ場合は、氷水につけた魚の周りに更に雪を積み上げてかちんこちんにしていたのだとか。ロシアの厳しい気候がなせる技と言えるでしょう。

 夏の魚の運搬の主役として活躍していたのは、プローレシという活魚運搬用の船でした。この船の真ん中には特別な生け簀が作られていて、その生け簀には開口部プローレシがあって、水が循環するようになっていたのです。


今回の参考文献~またまた「世界歴史大系 ロシア史1 9世紀▶17世紀」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る