カーシャ その②
前回述べたように、子供の洗礼祝いで重要な役割を果たしていたカーシャですが、もしかしたら洗礼祝い以上にカーシャが重要視されていたのが、婚礼の祝宴でした。なんてったって、結婚披露宴そのものがカーシャと呼ばれていて、花婿と花嫁はカーシャを一緒に食べて初めて新婚夫婦になると考えられていたぐらいなのですから。
なお、婚礼の祝いのカーシャを炊くのはかなり手間がかかる作業で、昔は数家族が寄り合って一度に焚いていたそうです。そういった歴史的な背景を持つことわざには、自分で背負い込んだ厄介ごとは自分で解決しろという意味の「自分で炊いたカーシャは自分が啜れ」があります。
ただ、婚礼の祝いのカーシャを数家族が寄り合って炊いていた、というのはあくまで一般庶民、それもどちらかというと貧しい家の場合だけかもしれません。というのも、カーシャは古代の叙事詩は物語では祝宴や富のシンボルとされていて、実際披露宴のカーシャは新郎新婦のうち格が上の家で準備されるという風習があったそうなので。そのため、どちらの家でカーシャを煮るかという争いが実際に起ることもあったようです。という訳で、以下でロシア史の偉人二人の結婚の際のカーシャを巡るやり取りを見てみましょう。
まずは、モンゴルには臣従した(モンゴルに反抗的な自分の弟を追放したり、反モンゴル運動を弾圧したりした)一方、スウェーデンやドイツ騎士団との戦いに勝利しルーシをカトリックの進出から守った功績で列聖もされたアレクサンドル・ネフスキーの場合から。ちなみに、「ネフスキー」とは「ネヴァ河の」を意味します。ネヴァ河畔の戦いの際、アレクサンドル・ネフスキーが僅かな兵力でスウェーデン軍を打ち破る大勝利を収めた功績を讃えて、後世の人物がこう呼んだのです。
……皆さん、モンゴルの犬になって自分の弟を追放したり民を弾圧する奴が列聖されていいのか!? と思われるかもしれませんが、アレクサンドル・ネフスキーの時代の脅威はモンゴルだけではありませんでした。いずれ旧ルーシ領の大多数を版図に収めることになるリトアニアや、前述したスウェーデンやドイツ騎士団など。
そういった輩に比べれば宗教的に寛容な(カトリックの十字軍はビザンツ帝国の領土を荒らしたりしています。同じキリスト教徒なのにね☆)モンゴルに忠誠を誓って信仰と国を守るというのは、支配者としても一人の正教徒としても賢明な判断だったのです。それに、圧倒的な強さを誇っていた当時のモンゴルに挑むというのは、はっきり言って周囲を巻き添えにした自殺行為でしかありません。
しかもモンゴル侵入時のルーシは、キエフは既に権威だけの存在となっていました。また、分領公国と呼ばれる主要なものだけでも十を越える諸独立国に分かれていて、それぞれを治める公は内紛を繰り広げてたのです。そんな内憂外患の最中に現れた英雄がアレクサンドル・ネフスキーだったのです。ちなみに、アレクサンドル・ネフスキーはモンゴル軍のルーシ侵入が始まった時、十七歳でした。
以上、ロシア史好きか映画通以外にはアレクサンドル・ネフスキーと彼が活躍した時代がどんな感じか分からないだろうと思ったので加えた簡単な説明でした。では、以下から本題に入ります。
1238年、ノヴゴロド公だったアレクサンドル・ネフスキーは結婚することになりました。相手は、ポロツク公女アレクサンドラ・ブリャチスラヴナ。ちなみに、彼女の父ブリャチスラフが最後のリューリク家出身のポロツク公で、次のポロツク公はブリャチスラフのまた別の娘と結婚した当時のリトアニア大公の甥です。こういう所からも、アレクサンドル・ネフスキーが生きた時代の動乱ぶりが窺えますね。
またまた話が逸れてしまいましたが、アレクサンドル・ネフスキーが結婚する際には、新郎と新婦のどちらの家の格が上か決められませんでした。アレクサンドル・ネフスキーの父は当時、あるのは権威だけとはいえかつてルーシの中心だったキエフ大公と、ウラジーミル・スーズダリ大公国という発展した大公国の大公を兼任していたのですがね。
だったら花婿の家の格の方が上じゃね? と思ってしまいますが、花嫁側の家にも譲れない何かがあったんでしょう。ま、花婿も花嫁もウラジーミル聖公の子孫なのですが。聖公には十二人の息子がいたそうなのですが、聖公の次の次の代以降のリューリク朝の公は全てヤロスラフ賢公か賢公の同母兄であるポロツク公イジャスラフの子孫なのです。
……まあとにかく、家柄勝負に決着がつかなかったので、まず花嫁が住んでいた土地でカーシャを作り、そしてもう一度、花婿が公として(※)住んでいたノヴゴロドでカーシャを作ることにしたのだとか。
こうして無事結婚できたアレクサンドル・ネフスキーの末の息子はモスクワの公となり、この系譜からロシアをタタールのくびきから解放するイヴァン三世(大帝)やイヴァン雷帝が出てきます。この辺りになってくると「ロシアの」歴史という感じがしますね。
※
ノヴゴロドはルーシの他の公国とは異なり貴族共和制のような政治体制で、リューリク家の誰かを公として招聘するものの、公に求められる役割はあくまで軍事指導者としてだけでした。しかも、公国の都合で強制的に追放されたり、また呼び戻されたりします。アレクサンドル・ネフスキーも一回追放されました。
次なる人物は、モンゴルをクリコヴォで打ち破った英雄、モスクワ大公ドミートリー・ドンスコイ。彼はアレクサンドル・ネフスキーの孫の孫にあたります。
このクリコヴォの戦いはルーシ側が初めてモンゴルに勝利した戦いで、モンゴルの無敗神話を崩してルーシを大きく勇気づけ、タタールのくびきから脱却する切っ掛けともなりました。またこの戦いに勝利したことにより、モスクワの威信は上昇。自ら先陣で戦った大公ドミートリーは「ドン川の」を意味する「ドンスコイ」と讃えられるようになりました。タタールのくびきから脱却するには更に百年ぐらいかかるんですけれどね。
で、ドミートリー・ドンスコイの場合も妻となる女性と家の格が拮抗してしまいました。そのため、新郎のモスクワと新婦のニジニ・ノヴゴロドの中間地点であるコロムナでカーシャを煮たそうです。
カーシャは新婚家庭で夫と妻のどちらが采配を振るうのかを決めるシンボルであり、そのため花嫁と花婿の家柄が互角の場合は、カーシャを煮る権利の取りあいになったのではないか。と、本では上記二つの例から推測されていました。
前回と今回の参考文献
・ユーラシア・ブックレット104 諺で読み解くロシアの人と社会
・家庭で作れるロシア料理
・世界歴史大系 ロシア史1 9世紀▶17世紀
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