廃娼運動と法律 その③

 前回の簡単なまとめ:十九世紀イギリスは下層階級にとっての地獄。あとブリュッセル警察はクソ。


 だったのですが、最初にひと騒動きたのもベルギーの密輸組織でした。バトラー夫人の著作を多数出版しているクエーカー教徒・ダイヤーさんが知り合いのビジネスマンから聴かされた話を切っ掛けに、前回述べたような経緯でベルギーで売られた、哀れなイギリス娘の存在が明らかになったのです。

 ダイヤーさんはイギリス娘の人身売買と大陸における売春を無くすための委員会を結成し、自分たちの調査結果をイギリスのいくつかの新聞社に知らせました。

 このことが発表されると、当然のことではありますがブリュッセルの風紀警察の局長は怒り、そんなことはありえないと否定しました。ブリュッセルではいかなる女性も公認の娼館で働く場合は、それが自由意志によるものだと事前に警察に宣言するようになっているのだから、と。当時のブリュッセル駐在イギリス副領事も、ブリュッセル風紀警察の側に立った意見を述べました。


 こうした経緯があって、もしかしたら自分が間違っていたのかもしれないと不安になったダイヤーさんがブリュッセルの娼館を訪れると、彼に救いを求めるイギリス娘がすぐに見つかりました。

 曰く、彼女は女中として働くためにブリュッセルに来たが、到着するやいなや女主人(娼館の女将のことでしょうね)から就労許可を得るために警察に許可を得たのか、そうしないと働けないが、と尋ねられた。彼女は出生証明書を持っていなかったので、女主人は偽の証明書を用意した。けれど偽の出生証明書を提出するのは法律違反だったので、彼女はそのことで女主人にゆすられ、ここに閉じ込められている。偽名で登録しているから、イギリス当局も彼女の行方を掴むことはできない……。


 これ、出生証明書が必要という件から考え抜かれた手段でしょうね。

 娼婦として働くために出生証明書が必要なら、「女中として働くためには必要」とでも言いくるめて、あらかじめ本人に用意させた方が色々とスムーズにいくでしょう。でも女主人はそうさせず、偽の証明書を用意した。そうして哀れな娘に法律を犯させ、外に助けを求める手段をあらかじめ奪っておこうとしたのでしょう。警察に駆け込んだところで自分が犯罪者扱いされると分かっていたら、どんなに嫌でも苦しくても可哀そうなイギリス娘は騙されて売られた娼館から出ていけなくなりますものね。うーん、えげつない。


 何はともあれ、ダイヤーさんは(この人ほんといい人ですよね!)この調査結果を前述のブリュッセル風紀警察局長のオフィスに報告しに行ったのですが、けんもほろろの対応をされました。

 こうしたことがあってダイヤーさんの中では、ある疑念が膨らんでいきました。もしかしてベルギー警察が、このイギリス娘の人身売買事件に深く関わっているのではないか、と。


 ダイヤーさんは、イギリス領事館員に介入を求めたが断られたり(この館員、ブリュッセル風紀警察局長の友人だったらしいです。類は友を呼ぶってやつですね! どっちもほんとクソ☆)、イギリスに帰って得た情報を新聞社に提供しても無視されたり、上記の腐れ領事館員に外務省に「ダイヤーが言ってるのは嘘」と報告されたため公的機関にも無視されるようになったり、と様々な苦難に直面しました。

 それでも彼は、ブリュッセルで出会い、彼に助けを求めてきた哀れなイギリス娘を救うための努力を続けました。そして、自分の体験を記した小冊子「ヨーロッパにおけるイギリス少女奴隷の売買」を出版することにしたのです。


 ベルギー政府はダイヤーさんの告発を受け、イギリス警察の担当者を招き、調査に当たらせることにしました。が、イギリス警察の案内役を任されたのがダイヤーさんに売春の共犯として告発されたブリュッセル風紀警察の面々だったのだから、当然何も見つかるはずはありません。が、良心のなせる技なのか、ブリュッセル風紀警察の一人がパリにいたバトラー夫人の許を訪れ、真実を打ち明けたところから話は変わってきます。

 彼が宣誓して証言したところによると、ブリュッセル警察はイギリス警察が到着する前に全ての娼館を周り、見つかる限りのイギリス娘を集め、調査の間隠していたというのです。また娼婦は何も喋ってはいけないと脅され、娼館の経営者はダイヤーさんや彼の協力者を中に入れないように命令されていました。

 またさらに、ブリュッセル風紀警察の次長は二軒の娼館を経営していて、風紀警察局長の息子は移民管理局長なので少女の密輸が難なく認められているという事情も明らかになりました。ついでに、ブリュッセル風紀警察局長父子はワイン貯蔵業を営んでいて、娼館への販売を一手に独占していることをも。……当時のベルギーも、イギリスに負けず劣らずだったようですね。堕落とか腐敗とか、そいうレベルでは済まないような気がします。


 こうした結果を受け、バトラー夫人自ら児童売春反対のキャンペーンに乗り出すことになり、彼女はその中で、誰も触れようとしてこなかったヴィクトリア朝の上流階級の男の地獄に堕ちろとしか言いようがない嗜好――処女、特に子供を犯すことを好む――を指摘さえしました。また諸外国の堕落した警察権力の支配する売春統制制度と、イギリスの子供を保護する法律の不備がこのような事態の原因であるとも。


 ブリュッセル当局はバトラー夫人を陥れるためにあくどい策を張り巡らせたりもしたのですが、バトラー夫人はこれを見事に切り抜けました。そうして、彼女の友人であった当時のイギリスの内務大臣と外務大臣(流石、名家の出ですよね……)の活躍により、特別調査官がブリュッセルに派遣されることになり、イギリス娘の人身売買の証拠が見つかりました。

 こうしてついに、あの腐れ外道父子とブリュッセル警察内部の共犯者、及び娼館の経営者十一人が有罪となりました。そして、囚われていた三十四人のイギリス娘が解放されることとなったのです。悪が裁かれ正義が勝つって、嬉しいですね!

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