アメリカ その③

 これまで見てきたように、かつてのアメリカでは売春は野放しにされていました。が、南北戦争が終わると、アメリカでもヨーロッパに倣って売春統制の動きが出てきたのです。がこの試みは、女性運動が政治的な力を持ち始めたこと、そもそもヨーロッパの売春統制が成功したとは言い難いこともあって、唯一セントルイスでの場合を除けば実施されることはありませんでした。しかも、唯一の例であるセントルイスの場合さえ、1870年から1874年という、短期間しか続かなかったそうです。


 売春を統制することに失敗したため、アメリカの中心的な大都市の多くは隔離政策を採ることにしました。大半の州では隔離地区を設けることは法律違反だったにも関わらず、娼婦を紅灯レッド・ライト地区と呼ばれる区域に閉じ込めようとしたのです。ちなみに、紅灯地区は、売春宿に訪れた汽車の制動手(列車に乗車してブレーキを取り扱う仕事をする鉄道員のこと)が、宿の前に信号用のカンテラをかけておく習慣から、そう呼ばれるようになったそうな。

 前述のように隔離政策は大抵の州で法に触れていましたが、法の取り締まりに当たるはずの役人は隔離政策に賛成していました。そうすることで地域社会を不道徳な悪影響から守ることができるし、ゴロツキの動静を掴んで組織悪をも取り締まることができると考えたからです。またこうした黙認地区は、法律に違反しているからこそいつでも手を入れることができるので、理論上は常によい状態に保つことができます。ただしこんなことをやっていたら当然、警察はどんどん腐敗していくことになるのですが。

 ということで、黙認地区を設置した都市の多くは、地元の聖職者や女性といった改革グループからの攻撃に、定期的に晒されることになりました。改革派の女性たちは「客の放蕩男どもは取り締まられないのに、娼婦だけが規制を受けるのはおかしい!」という理由から声を上げていたそうです。しかしたとえ改革グループが公式な手続きを経て売春宿を閉鎖させても、警察を始めとする役人連中が黙認地区を支持している以上、数週間から数か月も経てば営業再開されるのが常だったそうです。

 トラブルはありましたが、少なくとも七十七の市や街がこの黙認指定地区制度を導入しました。しかし二十世紀に入るころには隔離制度は既に効力を失い、1917年の四十の年を対象にした調査では、まだ黙認地区を残しているのは十の市だけだったそうです。


 さて。特に南部の都市には、娼婦を隔離するための指定地区を二つ以上設けるところがありました。白人用と黒人用に、です。ほんとクソだなと思うけれど、当時のアメリカの白人男性様方(笑)がこんなことしていても、大して驚かない自分がいます。

 指定地区の規模は一ブロックからなる小さなものから数本の通り含む大規模なものまで、さまざまなものがありました。更に地域差もあり、たとえば西部や北西部の指定地区の場合だと、娼婦はそこに設けられた狭い個室で仕事をしていたのですが、個室には働くだけで住みこんではいけませんでした。南部な南西部でも娼婦は小部屋で客をとったけれど、そこで過ごすのはあくまで仕事の時だけだったそうです。

 ですがその一方で、娼婦に隔離地区内に住むように強制する所や、娼婦とその御付きだけを指定地区に住まわせるところもありました。でもその逆に、娼婦が住んでいるのはあくまで地区外で、夜や仕事時間だけ小部屋を借りていた、なんて所も。

 また、隔離地区には色街にはつきものの酒場やダンスホールが商店があったため、貧しくて他の地区に移れない一般市民が居住している所もあって……。と、本当に様々だったようです。

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