中世ヨーロッパ その①

 今回から中世ヨーロッパ編に入ります。と、いう訳でまずはビザンツ帝国の売春事情です。

 本によると中世初期になされたことで現代のヨーロッパ文明の発展に最も寄与したものは、ローマ法の編纂。中でも六世紀に、ユスティニアヌス一世の命によって編纂された「ローマ法大全」が最も大規模な事業だったそうです。ちなみに、ユスティニアヌス一世以前には、五世紀のテオドシウス二世や、四世紀から六世紀の衰退したビザンツ帝国に侵入した民族の為政者も、法典の編纂を手掛けています。

 で、ヨーロッパにおける売春の法的基盤となったのは、上記の法典なのだそうです。ただし、編纂に関わったお偉方はあの頭かっちこちの教父が抱いていた二重規範――売春は悪だけど、悪は悪でも必要悪だから認めよう! をほとんどそのまま踏襲していたのだとか。変化があるとすれば、売春の弊害を多少排除しようとしたぐらい。

 例えばテオドシウス法典では、親は娘や奴隷に売春を強要できなくなり、売春税廃止の措置が取られ、国家財源としての売春への関心は薄れた。けれどもそれが正式に実行されたのは五世紀のアナスタシウス一世の治世になってからなので、ユスティニアヌス一世の時代にも売春婦はもちろんいたのです。ただ、首都コンスタンティノープルから売春斡旋人や売春宿の経営者を追放するなど、組織的な売春をなくそうという努力はしていたそうな。

 またユスティニアヌス一世の「ローマ法大全」では、妾は主人と肉欲や性的な魅力のみならず夫婦としての愛情でも結びついているとして、妾と売春婦を明確に区別しているそうです。もっとも、この考え方の登場はローマ法大全が初めてではなくて、妾と主人は内縁関係にあるとした教会の見解を明文化したものだそうですが。

 とにもかくにも、妾と売春婦を区別する姿勢は、中世全般で見受けられるそうです。キリスト教教会が東西に決定的に分裂した大シスマは1054年のことですから、分裂前の姿勢ならばカトリックと正教のどちらにも受け継がれて当然でしょう。


 ところで、ユスティニアヌス一世の皇后テオドラは、若い頃は女優として生計を立てていたと言われている人物です。で、当時「女優」という単語は売春婦とほとんど同じ意味で使われていました(※)。

 というのも、男性が女性の役を演じたギリシア演劇とは異なり、ビザンツ帝国では女の役は女が演じていて、その主な演目をほとんどもしくは全く衣服を身に着けずに行っていたから。しかもその演目だって、パントマイムや道化芝居、卑猥な歌やダンスと、当時の人々にとっては高尚とは真逆に位置するものでした。ために当時のビザンツ帝国の人々にとっては、劇場に関わりがある女は皆あばずれ、劇場とは売春婦の巣窟でしかなかったのです。

 ※売春婦は全て女優だったというわけではなく、クセノネスという外国人や旅行者、巡礼者のための宿泊所にも多くの売春婦がいたそうです。クセノネスはそもそも、本来は地方から上京してきた人などに旅の目的を問わず食事や寝床を提供する、慈善的な宿泊施設でした。けれど、管理人も利用者もいかがわしい人間が多く、あやしい目的に使用されているのは明らかだったのだとか。こういった、他の職業を隠れ蓑にする売春は、ビザンツの歴史にしばしば登場するそうです。


 己の過去と惨めな境遇におかれた娼婦たちを重ね合わせたのか。はたまた地方の町や村で貧困に喘ぐ親を甘言で唆して娘を買い取っては、コンスタンティノープルの売春宿の薄暗い部屋に閉じ込め、金儲けのために搾取するという女衒のやり方に憤ったのか。とにかくテオドラは更生した娼婦のために悔恨メタノイアと名付けられた女子修道院を立てたり、売春婦を住まわせるために古い宮殿を改造し、更に十分な金銭的支援も行うなど、娼婦に度々救いの手を差し伸べていました。


 そういえば皆さんは、覚えていらっしゃいますでしょうか。ローマ帝国には、元老院議員は「かつて売春婦だった、もしくは先祖に売春婦がいる女とは結婚できない」という法律があったことを。その考え方はビザンツ帝国時代にも受け継がれていて、当時のビザンツ貴族は女優もしくはそれに類する経歴を持つ女性との結婚が禁じられていました。

 テオドラと出会った当時、叔父ユスティヌス一世の養子となっていたユスティニアヌス。後継者候補です。当然お偉いさんです。つまり、このままでは愛するテオドラと結婚することはできません。叔母の皇后エウフェミアも、二人の仲を反対しています。

 普通ならここで諦めて、自分の治世の安定のためにも、もっと家柄がいい女なり、有力者の娘なりを娶ろうとするでしょう。しかしユスティニアヌス一世は諦めず、自分たちの結婚の障害をなんとか解決しようとしました。

 こうした甥の努力と一途な愛に感じるものがあったのか、ユスティヌス一世は貴族の結婚に関する法律を改正しました。そのため、皇后エウフェミアの死後ではありますが、ユスティニアヌス一世とテオドラは晴れて結婚できたのです。


 ユスティニアヌス一世のために改正された後の法律では、キリスト教精神に則り女優に更生の機会を残していましたが、それは舞台を去るというのが条件でした。更生後の女優兼娼婦が少しでも舞台に復帰しようとしたら全力で阻止されるなど、彼女たちの貞操は老いてその必要がなくなるまで厳重に監視されていたそうです。

 このように、ビザンツ帝国でも売春は蔑視されていましたが、売春婦がそういった扱いを受けることはなくなりました。ローマ帝国時代に娼婦を苦しめていた法の上でのハンデや汚名の多くが取り除かれたからです。

 ビザンツの人々は売春婦が自らの意思で罪深い生活から足を洗うことを望み、歴代の皇帝のみならず、熱心なキリスト教徒は売春婦に更生するように解くのみならず、その手助けもしていました。売春婦のための更生施設は数多く用意されていたし、売春婦は結婚することもできたのです。そう、皇后テオドラのように。


 ユスティニアヌス一世とテオドラの結婚は、当時の人々にとっては眉をしかめずにはいられないような出来事でした。けれども皇后となったテオドラはその知性や度胸でユスティニアヌス一世を良く助け、ユスティニアヌス一世は後世で大帝と讃えられる支配者になりました。ですから、ユスティニアヌス一世の治世は色々な波乱があったけれど、二人は終生(テオドラは夫より二十年ほど早く亡くなってしまいましたが)幸せだったのではないでしょうか。たまに、というかこの章に入ってからは多分初めていい話が来ると感動せずにはいられませんね!

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