中国 その②

 皆さんご存じのように、かつての中国社会では、金と地位ある男が多くの女を囲うのは当然のことでした。その代表とも言うべきものが「後宮」ですが、後宮の妃の数にはある決まりがあります。それは、正妃一人、三夫人(唐代は四夫人)、九嬪……(以下多すぎるので割愛)と、正室を除く各々の位の数が概ね三の倍数になっていたことです。これには、奇数が自然や男性、男性の性的能力といった能動的な力を表すとされていたからなのだとか。

 特に一の次の奇数である三には(本には三が最初の奇数って書いてたけど、ほんとこういうところがなあ……)特別な力があるとされていて、その三の三倍である九はありあまる力を表していました。更に九の三倍である二十七は世婦(婕妤、美人、才人に分けられる)、そのまた三倍である八十一は御妻(宝林、御女、采女に分けられる)の数と合致します。つまり、後宮の妃たちは、その数にもきちんとした意味があったのです。にしたって多すぎだし、流石にこの数を相手にするのは皇帝だって疲れるだろ、と勘ぐってしまいますが。


 上記のような決まりがいつ頃芽生えたのかは、色々と意見が分かれているそうです。ただ、有史のかなり初期から宮廷には王と妃の性生活を監視する役割を果たす女性がいたことは間違いないのだとか。王が妃とおセッセする回数は、位が低い女性は頻繁に、正妃であれば僅か月に数度、というように階級に応じて決められていたので、それを守るように王を監視していたのだとか。とかなんとかいいつつ、後世のこの役目は宦官に奪われてそうですよね。特に根拠はないけれど、なんとなく。

 ちなみに、位が低い女性ほど頻繁に王と致す機会が巡ってくるのですが、王はその場合射精しないように、つまり陽の気を高めるように心がけていました。そうして陽の気が最高に高まった時にのみ正妃と子作りすれば、健康で聡明な跡継ぎが生まれるのみならず、王が長生きできるようになると考えられていたのです。

 そのため王が位の低い妃と寝所を共にするのは、位が高い妃の許に訪れる前に、というのが原則でした。ただ私思うんですが、この方法で妃たちの間を順々に巡るのはいいけど、各々の女性を訪れるタイミングとその女性の排卵期にずれがあったら、誰にも問題はないけれど子供が生まれない後宮というものが生じたのではないでしょうか。それを考えると、子供が沢山いる中国の皇帝って、結構凄いのかも……。

 まあんなこと言っといても、皇帝だって人間だからある一人の女性に夢中になったら他の女なんてどうでもいい! となって彼女の許に通い詰めて、そしたら子供ができた~なんてこともざらにあったでしょう。


 さて。後宮の女性たちを宮廷に咲いた豪華絢爛なる牡丹の花とすれば、市井の花たる女性たち――妓女のことも忘れてはなりません。中国において娼婦は社交生活に無くてはならない存在でした。当時の(と、いっても中華四千年の歴史のいつ頃を指すかは不明ですが)慣習では夫の旅行に従うことのなかった、後宮役人や作家、芸術家、商人の妻に代わり、旅の途中の彼らを歌や踊り、会話でくつろがせたのは踊り子といった商売女だったのです。もっとも、纏足の風習が広まるにつれて踊りは廃れていったそうなのですが。

 ただ、社交や仕事に関する話し合い、取引は全て家庭の外、料理屋や寺院、遊郭で行われていて、そうした場に娼婦を侍らせるのは粋なことだとされていました。後は、この章の前の前の「唐代の女性たち」の妓女編でも参考にしていただければ、特にこの場で述べるべきことはもうありません。というわけで、中国編はこれにて終了!


 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る