インド その⑥

 今回でインド編は終わり。次からは中国編に入ります。


 これまで述べたように、女性にとってはまるで地獄のような価値観がはこびっていたことが察せられる昔のインド。しかし、古代インドの思想家は、迷える女性にはかなり寛大だったそうです。

 ヴェーダの時代には、姦通や売春の経歴があっても、その罪を告白しさえすれば、宗教儀式に参加してもOKだった。けれども時代が下り、他民族による征服やカースト制度の厳格化、加えて結婚を第一義とする考え方が強化されるにつれて、これまで何度も出てきた二重規範が広まり、女性はたった一度でも過ちを犯せば命取りになりました。夫はどんなに自由に振る舞っても一部の例外(※)を除けば許されていたのに、です。

 ただし、既婚の男性が娼婦の許に訪れることは妻に対する侮辱であるとして、妻は法律の許す範囲で夫に悪態をついたり夫を叩いても大丈夫だったそうな。……昔のインドは、変なところで寛大だったんですね。だったらその寛大さを、女性を取り巻く状況そのものに向けてくれていればよかったのに。

 ※たとえばバラモンは、娼婦と交わることは穢れとされていたため、事後は身を清めなければならなかったそうです。って、許されないといってもその程度なんですね。ユルすぎでしょ。


 とにもかくにも、女は徹底的に夫に身を捧げるべきだという考えが支配的で、その象徴ともいえるサティ―(夫の亡骸を焼く火に飛び込んで、妻が殉死する慣習)は、妻の理想の行動でした。

 ちなみに、サティ―に踏みきれなかった妻たちの多くは、売春婦にならざるをえなかったのだとか。これまでのパターンを踏まえたら想像の範囲内のことですが、辛いですね! でも、昔のインドでは未亡人と偶然出くわすことは不吉だとされていたので、たとえ夫の死後売春婦にならなかったとしても、辛い生活が待っていることは間違いありません。本当に辛いですね! ちなみに、娼婦と出くわすことは吉兆だとされていたのだとか。

 だからという訳でもないけれど、若くして夫に先立たれて、でもサティ―は恐ろしくてできなかった(当然)という女性の中には、むしろ進んで娼婦になった人もいたんじゃないんでしょうか。その中にはもしかしたら、夫に従順に仕えなくても良いだけ、娼婦として自立してからの方が気が楽、という方もきっといたでしょう。


 これにてインド編で語りたいことはほぼ終わったのですが、インドはヒンドゥーのみならず、仏教が生まれた地であるということも忘れてはなりません。ということで以下から、次回・中国編にも密接にかかわるタントラの教義についてざっくり、本当にざっくり触れていきます。


 タントラでは人間は男女を問わず誰でも異性の原理を体内に持っているとされています。で、女性原理ラーラナと男性原理ラーサナは、それぞれ表すものが色々あるのですが、そこらへんもすっとばしていきます。ただ、男女ともに二つの原理が身体に備わっている限りは涅槃ニルヴァーナに至れず、輪廻の輪に取り込まれたまま、ということは覚えておきましょう。

 で、この二元性を克服するためには、相手と意識した上で抱擁(意味深)を交わさなければならない、とタントラ教では説かれているのです。性行為の際、男性は相手の女性から刺激を受けつつも臍の周りに存在する菩提心ボーディチッタに精神を集中し、相手から女性エネルギーを吸収すると、ビンドゥという新しい、より強力なエネルギーの精滴を生み出せるそうな。

 ビンドゥはラーラナとラーサナの境界線を突破して、体内を上昇して脳に達するまでに男女の原理をも混合します。そうして男性は絶対の真理および空と合体し、涅槃の境地を会得することができるのだとか。ふーん、という感じですね。


 

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