インド その⑤

 今回は、前回触れた『実理論アルタ・シャーストラ』の内容をちょっと踏まえて、昔のインドの娼婦たちを取り巻く環境について述べて生きます。

 昔のインドで売春婦になったのはほとんどの場合下級カーストの出身の女性でした。売春婦の子として産まれた者とか、親に売られた者とか。ま、戦争捕虜や姦通の罪を犯した女性も娼婦にされることがあったそうで、こういった女性たちはもしかしたら以前は上級カーストに所属していたかもしれません。しかし、前にちらっと述べたようにたとえ上級カーストの出身でも、売春婦になれば社会的な特権は失われてしまいました。

 売春婦の社会的な地位に関して法律は一般的に明確な規定をしていなかったけれど、大方は人間的な扱いをしていたそうです。←は、本当にこんなことが書いてあったのですが、前までの回とかを踏まえると正気を疑ってしまう記述ですよね。ヴァーツヤーヤナとか、当時最も一般的だった売春婦の呼び名は「痰壺」だったとか書き残しているのに。怖い。こういうのがある意味一番怖い。ま、当時の基準では、ということなのでしょうけど。もしくは、その法律は結局有名無実のもので、存在してはいても守らせるだけの力がなかったのかもしれませんが。


 話は逸れてしまいましたが、上記のように(あまり信用できないけれど)娼婦たちは人間扱いされていたので、上のランクの者になれば王から声がかかった場合を例外として相手を選ぶ自由を認められていました。

 たとえばカウティリヤは、男を接待する女に種々の技芸を教え教育を施すのは国家の義務、どんなに厳しく管理するにしても、娼婦にも一定の権利は認めるべきだと考えていたそうです。なので、娼婦と客の間に結ばれた契約も法的に有効としました。つまり、違反行為から売春婦を守る見返りとして、毎月二日分の収入に相当する額を税金という形式で納入させようとしたのです。

 ただし、娼婦対客の争いで守られるのはもちろん娼婦だけではありませんでした。娼婦の側に客と合意を結んだ後で同行を拒んだり、他の男と行ってしまったなどの落ち度があれば、それ相応の罰金を払わなければならなかったのです。

 また娼婦たちは財産の私有も認められていて、国家から支払われる手当の他に装身具や客からの花代に心づけ、女奴隷を自分のものにとすることも認められていたそうです。装身具については商売に必要不可欠なものなので、売春婦が法律を犯しても他の財産はともかく装身具だけは没収しないという決まりがあったぐらいです。

 娼婦は金銭抜きで結ばれた愛人を持つことが重要と信じられていたため、羽振りがよい者はヒモを持つこともあったそうな。ただし、そのために勤めや稼ぎに支障を出すことは許されていませんでした。で、年を取ったら若い娼婦の指導にあたるか、王家の倉や台所の仕事を宛がわれたのだそうです。


 上記の、娼婦たちは財産の私有を認められていた~というところ、はっきり言って当然のことだと私は思うのですが、なのにわざわざ記されていたということに闇を感じずにはいられませんでした。ということはつまり、ここの件の資料が著された当時のインドでは、私有財産を持つことを認められない階層がいたということ? 自分が頑張ったから貰えた心づけを、自分のものにすることすら「人間扱いされている証」だったんでしょうか。私は、こういうところにすごく往時のインドと現代日本の価値観の齟齬を感じてしまいました。闇が深すぎる。

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