古代ローマ その②
前回述べたような、神殿娼婦以外の売春に従事する女(売春宿で働くか、または街娼としてか)は、望ましいとは言い難い環境に置かれていました。古代ローマでは売春宿は城壁の近辺に、首都ローマではキルクス・マクシム大競技場の近くに集中していたらしいのですが、あまりにも悪臭がひどくて、客の身体にその悪臭が染みつくのも稀ではなかったとか。ちなみに、古代ローマ後期では、国家公認の売春宿はローマで四十五、ポンペイでは少なくとも七つが知られていたそうです。
当時は
売春宿は
ちなみに、こういった売春宿にいる娼婦の一回の平均的な値段は一アス。だけれど、二分の一アスや四分の一アスという安値で客を取る女性もいる一方、また逆に十八アスという値を取るところもあったそうです。
なお、某フリー百科事典によると、ディオクレティアヌス帝(在位284年~305年)の治世では、一キロの葡萄は32アスで買えたそうです。と、いうことは古代ローマの売春宿の一回当たりの平均の値段は、葡萄の粒が何個か分ということ? ……きっと古代ローマの娼婦のお姉さんがたの大半は、虚しい想いを日々噛みしめていたでしょうね。
こんな、やってらんねえと叫びたくなるような細やかな値段でも、払い渋ったりヤるだけやって逃げようとする男がいたのか、古代ローマの娼婦は料金を前払いで取っ手いたそうです。
売春宿の所有者は、男ならば
①一人でやっている売春宿に部屋を提供する
②レノやレナが、奴隷や解放奴隷の女たちを雇って、僅かな給料で働かせる
という二つの種類に分かれていたのだとか。ほか、売春をしているけれど、必ずしも売春婦として登録するよう要求されなかった者たちもいました。そういった女性たちは、下等の宿屋や公衆浴場の近くにあったり、もしくはそういった所と結託した店に雇われていました。特定の顧客の接待のためにパン屋や宿屋に雇われた女性がいたり、女優や竪琴の奏者、酒場の女など他の職を持っている者が収入の足しにしようと身体を売ることもあったようです。この登録をしない娼婦には、「夜の蛾」「墓守り」、その料金から「ニアス」と呼ばれていた街娼も含まれています。
古代ローマの娼婦の大半はシリアやエジプト出身の奴隷、それも戦争捕虜ではなくて略奪や誘拐の犠牲者だったそうです。で、売春宿の経営者によって市で競り落とされた彼女たちは哀れにも、娼婦にならざるをえなくなった。
奴隷娼婦が実際どのような環境に置かれていたのかはほとんど知られていないけれど、彼女らはいずれも短命でした。しかも、金を払われたらどんな客でも拒むことができない。その上、こういった下級の売春婦はほかの人々からは貪欲で性悪で、快楽のためなら何でもやってのける色情狂と思われていたそうですから、ますますやってらんねえなあという感じ。
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