十一冊目 人類誕生以前から行われていたという売春の歴史

はじめに 何をもって売春を定義するか

 売春は世界最古の職業という言葉があります。そうでなくとも、売春が古くから存在した職であることには、誰も異論をはさまないでしょう。

 たとえばタイ国立公園のチンパンジーが肉と引きかえに交尾をする様子が観察されていてます。これは野生でも存在する行為でしょうから、とすればもしかしたら人間――ホモ・サピエンスはホモ・サピエンスとなり、更に自らの行動を記録に残すようになる前から、「対価と引きかえに性行為をする」という意味ではずっと売春を行ってきたのかもしれませんね。


 そういえば、ホモ・サピエンスとはラテン語で「賢い人間」を意味しているのですが、現生人類の知性は果たして自ら定めたこの呼び名に恥じないものなのだろうかと、私は甚だ疑問に思っています。

 人類が滅びた後の地球を(人類が滅亡してもなお、地球が生物が存在できる環境を保っていたとしたらの話ですが)支配するのはイカから進化した生物なのだそうですが、遠い遠い未来の地球の支配者は我々が自分のことをホモ・サピエンスと呼んでいたと知ったら、指ならぬ足さして大笑いするのではないでしょうか。

 もしくは何も未来でなくとも、人間と一部の類人猿をも除く動物が、人間の言葉を解せるようになったとしたら。きっと、彼らは大爆笑するでしょう。売春などという、多くの場合は排卵していない、つまり性行為を行う価値など無いに等しい雌に、わざわざ対価を払ってまで性行為を行う。即ち究極の無駄であり危険――性行為をしている間は、どうしても隙ができる。そんな時に、もしも敵に襲われたら?――をわざわざ行う愚かな生き物が何を言うかと。


 さて。性的不能者の章でも言及した「性的唯幻論序説」という本では、簡単に纏めると「動物の雄とは違い、人間の雄は周りの状況(例えば、雌が発情しているか否か)から雌の性器を切り離し浮かび上がらせて狙う」つまり「個人や文化によって程度の違いはあれ、人間の男は女の性器をその持ち主の人格と容易に切り離すことができる」という考えが提示されています。そしてだからこそ人間は、買春や強姦――相手にその気にあろうがなかろうが、極論相手が嫌がっていようがなかろうが、ただ自分の欲望を満足させるために性行為に及ぶということができるのだそうです。


 「売春の社会史」という本によると、世界の歴史を巨視的に眺めると、かつて世界の多くを占めていた男性優位社会では女は男――身内の男、もしくは夫の財産でした。だからこそ、その所有権を侵害する姦通や強姦は恥ずべきこととして罰せられていたのです。ま、窃盗と同じカテゴリーに分類されていた訳ですね。

 で、そういった社会で様々な事情があって結婚前に処女でなくなったり、それまで扶養してくれていた男から捨てられたり男に先に死なれてしまったり、あるいは最初から扶養してくれる男を持たない女はどう生きればいいのか。そう。そんな彼女らが自活するために採れる最も手っ取り早い手段が売春だったし、当時の社会もそれを容認したのです。

 というのも社会の方もそういった女性を養ったり、別の働き口を紹介するよりかは売春させていた方が楽だった。何より姦通や強姦その他の問題に対処するために、彼女らを必要としていたから。それに、有効な避妊法が無かった時代の女性たちは、度重なる妊娠や望まぬ妊娠を避けるために、夫や恋人が買春するのを黙認したり、勧めたりすることもありました。


 ところで、このように売春は大変古い起源を持ち、なおかつ社会的、政治的、文化的な諸相と密接に関わり合っているのですが、何をもって売春と定義すればよいのでしょう。対価と引きかえに、望まない快くもない性行為に応じる女は全て売春婦とすればいいのか。そうしたら、星の数ほど存在するであろう、対価――生活の安定――と引きかえに、愛情など欠片も抱いていない夫の求めに嫌々応じる妻もまた、売春婦ということになります。違うのは、相手にするのが一人か複数かというだけで。だいたい、この定義では男娼を漏らしてしまいますね。

 では婚外交渉は全て売春とするとしたら――純粋に互いを想いあっている恋人たちが、愛情を抑えきれずに致してしまったとしても、売春になってしまうのか。はたまた、小説などでよくある、旅先のバーとかで知り合った相手との、ロマンティックな一夜の過ちでも?

 思いのほか複雑な売春の定義。この問題も「売春の社会史」はイワン・ブロッホという人の説の、大変包括的な定義を取り上げ解決しています。曰く、売春とは「多かれ少なかれ淫蕩であることを特徴とする婚外性交渉の特異なかたち(原文ママ)」であると。確かにナイスな定義ですよね! ということでこれからは「売春の社会史」という本について纏めていくので、どうぞよろしくお願いしたします。

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