今回は芍薬の項でも「ラン・フジバカマ事件」について言及してきた蘭についてです。

 芍薬の項で触れたように、中国語で蘭とはラン科の蘭(蘭花、芝蘭)と、キク科の蘭草(佩蘭はいらん沢蘭たくらん)――つまりフジバカマのことを指します。古代の蘭は主にフジバカマのことを指しているのだそうですが、今となっては文献に記されている蘭がどちらなのか判断するのは容易ではない。しかも、webio日中・中日辞典で調べてみたら、中国語の蘭は(古書中の)白モクレンのことも指すそうですから、ますますこんがらがってきますね。ということで以下では白モクレンのことはおいておいて、ラン科の蘭とフジバカマについて述べていきます。


 ラン科の蘭は地球上でもっとも古い植物の一つで、当然中国各地、特に華中以南では太古から分布していたと考えられています。中国戦国時代は楚の愛国詩人・屈原が「楚辞」で詠んだ蘭やけいとはこの蘭のことだという説もあるそうな。この説に従うと、ラン科の蘭は中国では紀元前に既に蘭の栽培が行われていたことになります。が、形状だとか性質が詳しく語られていないため、あくまで可能性があるというだけです。

 摘み取ると蘭の匂いは移ろいやすく葉にも特別な芳香はないのに対して、フジバカマはむしろ摘み取った後に香り立ちます(詳しくは後述)。なので、香料や香りを楽しむ佩物として利用されている蘭は、別名も踏まえてフジバカマのことだと判断してもよいのではないのでしょうか。ただ、匂いには一切言及せず髪や部屋に「飾る」となると、蘭花だろうとは思いつつどちらなのか断言できませんね……。


 フジバカマは中国原産の(日本在来種もあるとも言われている)、日当たりの良い河べりの土手や下湿地、草地などで繁殖する、草丈1~2mになる多年草で晩夏から秋にかけて茎の先端に淡い紫紅色の花を咲かせます。

 フジバカマは花や葉に芳香があるのですが、乾燥させて生乾きにすると桜餅のような良い匂いを放ちます。春先の若葉や茎には特に強い香りがあるため、古代中国では不祥を払うまじないとして沐浴の湯に入れたり身に佩びる他、女性たちは髪に挿したり匂い袋に入れたりして楽しんでいたそうです。そのため、フジバカマには女蘭という異名があります。で、この香りには不祥を払う力の他、異性を引き寄せる力があると信じられていたため、フジバカマは求愛の象徴となったのです。

 乾燥させたフジバカマには匂いだけでなく薬効があり、開花している時に地上部の全草を刈り取ったものは生薬名:蘭草として、利尿、解熱や月経不順に対して処方されます。「楚辞」ではフジバカマの同属のサワヒヨドリなどのが石蘭の名で呼ばれているのですが、石蘭もまたその芳香や薬効から男女の和合・子授けの力があると信じられていたようです。ということは、フジバカマもまたそうだったでしょう。


 芍薬の項で述べたように、古の中国では旧暦三月の上巳(三月三日の桃の節句)には不祥を払うための禊が行われていました。ですがそれは禊の後に気に入った異性と出会えば関係を持つという、一種乱婚的な集いでした。当然、結果どこの誰の子とも分からない子を身籠る女性も多かったのです。そして一説によると、こういった父親(=名づけ親となるべき者)がいない子は蘭が取り持った縁から生じたことから蘭子らんしと名付けられていたそうです。蘭からくさかんむりを取ったらんは「みだりに」という意味があることから、蘭子とは「出自が明らかでない者」という意味を含んでいるそうな。

 ちなみに、太古では叢の花の蔭などで交わった結果身籠ったら、それは女性の体内に侵入した花の精気のためだと考えられていたそうです。旧暦三月の上巳の禊は、川辺でやるのが一番手間がかからないし、その川辺には蘭(この場合おそらくフジバカマ)が生えていただろうから、「この子は蘭の精気から生まれた子」という意味でも蘭子と名付けられていたのかも。

  

 上記の歴史から、蘭は紀元前から遙かに下って六世紀にも愛情の象徴とされていました。また六世紀から更に下ると、「蘭は淫を好む」「蘭は女性が植えるとよく香る(※このことから、蘭は「待女花たいじょか」という異名もある)」「蘭は女性に世話をされるとよく育つ」という俗信が生まれました。上記の俗信は蘭のセクシャルな寓意のゆえだと考えられています。また、男子の美称のラン(láng)が蘭(lán)に通じることから、女性が蘭の夢を見るのは男児を妊娠する兆しであるとか、蘭を身に佩びたり室内に置いておくと男児が誕生する、という言い伝えもあったようです。

 このようにやはり決着をつけづらい「ラン・フジバカマ事件」ですが、蘭花の栽培は唐代には既に行われていて、宋代になると蘭花を観賞する風潮がとりわけ盛んになり、同時に蘭花と蘭草(フジバカマ)の混同もはじまったそうな。そうして蘭花もフジバカマ同様、「異性を招き寄せる・子孫を授ける」という花卉語を持つに至ったのでしょう。

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