今年(令和元年)も残り僅か。ということで、今回は少しおめでたい意味が込められた花についてご紹介いたします。今年が終わりお正月も終われば、大きな勝負――センター試験に臨むことになる高校三年生のうち、このまとめを読んでいる方は恐らく一人もいないでしょうが、昔の中国の「受験」――科挙と深い関係のある花を。


 遙か唐代の、旧暦二月――グレゴリオ暦に換算すると二月下旬から四月上旬のある日。都・長安の皇城にある礼部南院の、安上門街に面した築地の東に設けられた掲示場には、大勢の人が詰めかけていました。そして誰しもが、幾つもの名前が張り出された榜を一心に見つめ、そのうちある者は小躍りしながらその場を去り、またある者はがっくりと肩を落としてその場を去る。どころか、どんなに探しても自分の名前が見つからないことに半狂乱になる者も出ることもあった……。


 ここまで来ればもうお分かりでしょうが、これは隋から清まで中国で約千三百年も行われた官吏登用試験・科挙の最終合格の情景(の推測)です。もっとも、科挙に合格しただけで官僚になれるのではなく、任用試験も突破しないと駄目だったんですけどね! とはいえ、科挙に合格するのは即ち高級官僚へのスタートラインに立ったことであり、合格者の喜びは机とにらめっこする生活もこれで終わったという解放感も相まってひとしおです。そして、そんな彼らの喜びに彩りを添える花こそ、杏の花でした。


 科挙は時代によって違うけれど幾つかのコースに分かれていて、唐代でエリートへの登竜門だと見なされ、そのため難易度も高いのは「進士科」でした。どれくらい難関かというと、進士科の合格者で五十歳は若い方と言われるぐらい。

 そんな狭き門を突破した者には「進士」の称号が贈られ、旧暦二月が終わり三月になると、新進士たちは長安第一の景勝地・曲江池きょっこうちで宴を行います。曲江での宴もたけなわになると、進士たちは今度は飾り立てた小舟で西岸にある杏園に場を移し、改めて我が世の春を謳歌する。この宴は、将来のエリートを見物するために皇帝が、有望株を婿に迎えんと意気込むお偉方が、そして城中が空になるぐらいの長安市民が見物に訪れたという大変賑やかなものなのでした。


 努力の果てに喜びを掴んだ進士たち。彼らの顔を明るく照らした杏の花の雅称は「及第花」。つまり杏は及第(=科挙に合格する)や学業成就を象徴する、読書人の花だったのです。これには、孔子が故郷の杏に囲まれた壇で門弟に学問を教えたという伝説も関係していて、中国では花瓶に挿した紅い杏の花と書経(儒教の経典の一つ)で科挙合格を意味していました。それだけでなく、書経の古い呼び方は「尚書」で、尚書省といえば実務行政担当の官庁で、そのトップとは即ち宰相でしたから、「尚書紅杏」には「科挙に合格して宰相にまで出世する」という大変めでたい意味が込められていたのです。現代ではどうか分からないけれど、かつて中国では合格といえば、「桜咲く」ならぬ「杏咲く」だったのですね。


 他、杏の花に飛び交う燕を組み合わせた「杏林春燕きょうりんしゅんえん」(イェンは、イェンに通じる)、満開の杏林の中を意気揚々と馬を走らせる進士(※)を描いた「春風得意しゅんぷうとくい」は、全て杏に込められた「科挙及第」に由来しています。また杏は前述の読書人だけでなく、曲江の宴での婿選びから転じて「高貴な婿」をも象徴していました。

 ※新進士から特に年少の二名を選び、騎馬で曲江池周辺や長安の名園を巡らせ、杏や牡丹、芍薬など美しい花を取ってこさせる風流な趣向「探花たんか」が由来か。前述の合格者の宴は探花宴とも称され、探花は後代には、状元(首席)、榜眼(二番)に次ぐ、第三位の合格者を意味するようになった。この時派遣された進士は、探花使たんかし(探花郎とも)と呼ばれる。


 こうしてみると、杏はめでたいけれどお堅い植物だったのかなという感じですが、杏にはまた別の側面もあります。バラ科(桜や桃、梅もバラ科)らしい、可愛らしくも艶やかな薄紅色の花は陽春の象徴でもあり、農民にとっては春の種まきの時期の始まりを知らせる植物でもありました。それだけでなく初夏に沢山の実を付ける杏は多子の喩えにも用いられ、他のバラ科の果樹同様酸味があることから(参照:前話「梅」)愛を伝えるために用いられた植物でもあったのです。

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