唐代女性の美意識について ①

 中国の美女と言ったら、美しい黒髪に、透き通るような白い肌、そしてスレンダーな長身の、涼しげな美貌の女性を思い浮かべるのではないでしょうか。たとえば、失踪事件で一際有名になった某有名女優とか(あの方は本当にお美しいですよね……)。

 美人の条件や国や地域、はたまた同じ国でも時代によって変わります。ですが、最近無事に公の場に姿を現した某有名女優は、もしも唐代にタイムスリップしても美女だと称賛されるでしょう。なぜなら、彼女は唐代、及び中国の伝統的な美女の条件「長、白、美」を余すことなく満たしているから。


 「長」は、背が高いこと。「白」は肌が白いこと。そして「美」は容貌が美しいこと。これが中国の伝統的な美人の条件で、さらにもっと細かく条件を連ねていけば「小さい口、細い腰、白い手、細い脚に、輝く目」の、繊細な印象の女性が美女の誉れを受けたのです。後は、やっぱり肌は白さだけじゃなくて肌理細やかさも重視されていたようですね。

 日本だと、色の白さはともかく、美人の条件として背の高さはあまり挙げられないので、以外かもしれません。が、玄宗は太子の妃を選ぶ時に、「色白で背が高い」女性を選べと言ったそうなので、千年以上前から、中国の方にとっては背の高さは色の白さと同じくらい重要な美女の条件だったのです。

 

 ただ、唐代の美女は他の時代の美女にはない特徴がありました。それは、唐代では一般的に、他の時代の風が吹けば飛びそうな弱々しい印象の美女ではなく、健康的で雄々しく、豊満とも呼べるような美女が好まれたから。その証拠に、唐代の壁画に描かれた女性や女子俑は、みんなふっくらした頬にぽっちゃり系とも評せる体型をしています。

 唐代は比較的豊かだったからふっくらとした体形の女性が多く、また最初に述べたように北方騎馬民族の尚武の風を受け、女性も積極的に外に出かけて運動していたから、健康的な肢体の女性が多かった。だから当時の社会でも、現実にたくさんいた肉付きがいい女性こそ美しいとされるようになったのだそうです。


 このように、唐代では健康的な美女が好まれたのですが、ただ美しく生まれついただけで美女と讃えられるほど世の中甘くありません。生まれ持った容貌と同じくらい、化粧や衣服も大切なのです。

 唐代の女性の服装は、貴賎や年齢の上下を問わず、基本的には同じです。

 さん(一重の上着)、くん(スカートのこと。胸、もしくは腰から下に着ける。大抵は地面を引きずるほど長く、だぶだぶしていた)、帔帛ひはく(肩掛け。腰のあたりまでゆったり垂れるぐらい長く、捺染か金銀粉で花模様が描かれていた)。この三つで成り立っていました。あとは、杉の上に半臂はんぴ(袖が肘までの短さの上着。現代のベストのようなもの。丈は腰まであって、胴あたりをリボンで結んだ)を羽織って靴か草履を剥げば完成です。

 半臂は主に装飾目的で着用されていたので、かなり上質な布で作られていました。またデザインも、折り襟だったり襟なしだったり、前開きだったり、頭から被ったりと、色々あったようです。他にも、じゅという短い上着や、(ズボン)、ばつ(靴下)を着用したりしていたそうな。ただ、この袜は、男女ともに靴を履くときにはつけていなかったとか。

 ちなみに、唐代では柘榴裙といって赤いスカートが流行していた時期があったそうですが、楊貴妃は庶民が着る色と定められていた黄色の裙を好んだため、民間の子女がこぞって黄色の裙を穿いたこともあったとか。ところで、唐代は身分によって着用できる色が厳格に決められていました。黄色の裙を好んだ楊貴妃の振る舞いはその礼法から逸脱していましたが、それでも良いだろうと許されるおおらかな気風が当時の社会には漂っていたのです。


 服の次か同じくらいにたいせつなのは、そう化粧と髪形! 

 唐代の女性の化粧は、現代でいうファンデーションみたいに白粉を叩いた後、烟脂えんじ(頬紅)を付けて唇に紅を差し、まゆずみで眉を描き、更にその上に額や頬に花鈿かでん花子かし(唐代の女性のイラストで、眉間の辺りに描かれてる花模様のアレ。詳しくは後述)を張り、あるいは額黄がこう(読んで字のごとく、額の上に塗る黄色の粉のこと)を塗り、両頬に粧靨しょうよう(靨はえくぼの意味。詳しくは後述)を施す……という、はっきり言って厚化粧でした。想像してみたら、ちょっとケバいですね。白粉は、顔だけじゃなくて胸元や手にも叩いてたそうですし。

 唐代の化粧は概ね厚塗りだった。だけど、中にはこの厚化粧を嫌った人物もいました。例えば楊貴妃の姉の一人、虢国夫人は自分の生来の美貌をむしろ損ねる厚化粧を嫌い、たださっと薄く眉を引くだけの薄化粧を好んだそうです。まあこれには、「私は他の女みたいに化粧で誤魔化さなくても、こんなに綺麗!」という自慢が入っていそうですが。ただ、虢国夫人の他にも当時流行だった厚化粧をくどいと思う人々は結構いたのか、虢国夫人のような薄化粧を好む風潮も生まれたとか。


 花鈿は、伝承によると南朝宋武帝の娘が横になっている時に額に梅の花が落ちてきて、払っても取れなかったことから始まったそうです。その梅の花に樹液でもくっついていたんですかね?

 花鈿の材質は金箔や色紙、魚の鰓骨やフナのうろこ、菜脂や花餠など色々あって、それらの材料を花の形に切って、糊で額の中央や両頬に張りました。で、花鈿のうち両頬に張るものが粧靨と呼ばれたのです。粧靨の場合は花の形に拘らず、月や銭の図案が用いられることもあったとか。また、花鈿ではありませんが額の中央や眉間に紅で赤い点を入れることがあったのですが、それは生理中という意味でした。このようにして皇帝の妃たちは、生理中に皇帝に召されないようにしていたそうです。

 あとは、現代の顔クリームやリップクリームやヘアクリームのような油脂製品も使用されていたとか。ちなみに、唐代の女性が用いた化粧品の多くは、少府(官名の一つ)が監督する中尚署で作られていたそうです。なお、化粧道具としては、銀や玉、白磁製の合子ごうす(蓋のついた小さな小物入れのこと)の化粧品入れ、鋏や毛抜きが使用されていたようです。


 さて。薄化粧を好んだ虢国夫人も、眉だけには多少なりとも手を加えた。このことからも分かるように、唐代の女性は眉の美さを大変重視していたのです。当時は、生まれ持った眉を抜いてからその上に青黒色の黛で眉を描いたので、濃い黒の眉が良いとされていました。

 眉の形にももちろん流行がありましたが、概ね唐の前半は湾曲した長い眉(蛾眉がびと称され、美人の代名詞でもある)が、中晩期になると、太く短い眉(現代で言うまろ眉)が流行ったそうです。ただこの風潮に対して「流行りだからって、みんな揃って眉を短くしたりしないで、それぞれ自分の顔の形にあった眉にしたほうがいいんじゃないの?」と述べた男性もいたとか。

 女のオシャレのだいたいは、男にとっては意味不明。現代でもしばしば観察される現象が、唐代でも起きていたんですね。


 最後に髪形、及び髪飾りについて述べていきます。

 髪は、いつの時代も女の宝。ということで、唐代の女性は髪形にも非常な拘りを持っていました。唐代の女性はもとどり(髪を頭上で束ねたもの)を高く結うのを好み、髪が薄い女性は仮の髻(カツラみたいなものでしょうか?)を使ったぐらいです。また、唐代の女性は髻だけでなくびん(耳際の毛のこと)にも拘り、随時装飾を施していたとか。

 

 髪飾りとしてはさい歩揺ほようや櫛やしんを挿す他、生花を飾ったりしていました。

 中でも最も用いられたのが釵で、材質は金銀珊瑚やぎょくやガラス。装飾は主に首の部分になされ、鳳鸞(ほう=鳳凰も、らんも中国の伝説上の鳥。一説には、鳳凰の内、青いものを鸞という)や、鴛鴦おしどり(おしどりはつがいが離れないことから、中国においては古来から夫婦和合の象徴とされている。番のおしどりに子孫繁栄を象徴する蓮を添えた紋様は、幸福な結婚を祝う紋様として用いられてきた)、鸚鵡オウム燕雀えんじゃくなどの図像が彫刻され、その形自体も花や葉の形をしていました。尾の部分は、髪にしっかり挿せるように二股に分かれています。

 歩揺は皇后や太子妃など位が高い人が付けた頭飾りで、歩くたびに美しく揺れ光る大変美しいものです。

 簪の材質は角、玉、金銀など。簪は、元々は男性が冠を髻の上に固定するために用いていました。杜甫も「春望」でそんなことを言っていますね。ですが唐代では女性も頻繁に使うようになっていたそうです。

 櫛は、当時の女性のマストアイテムで、髻の後ろに何本も横に並べて挿していました。材質は、木、サイの角、象牙、金銀が多かったそうです。


 最後に、今回の「大唐帝国の女性たち」以外の参考文献をご紹介していきます。

・大唐王朝の華――都・長安の女性たち

・中国歴代女性像展――楊貴妃から西太后まで

・増訂 長安の春

・吉祥――中国美術にこめられた意味

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