私家婢 ①

 個人の家にいる賤民の女性には客女と婢の二種類に分けられ、そのうち客女のランクは婢よりも上だったそうです。というか、部曲の女性や婢が解放されてなるのがこの客女で、客女は誰かに譲渡することはできても、売買することはできなかったそうな。また、唐代では比較的貧しい家庭でも一人か二人はいるのが普通だった婢とは異なり、客女は富裕な家にしかおらず、しかもそんなに数は多くなかったそうです。客女は婢も主人の財産である点では代わりないのですが。なお、奴婢は主人の財産なので、主人の死後奴婢を遺産として人に譲渡させることも可能でした。


 婢は前述したような貧しい家では一人か二人ぐらいしかいなかったのですが、名門の家ならば数百人ぐらいの婢を持っていることもあったそうです。ちなみに、唐代では婢を贈答品として互いに贈り合うことが大変流行していたそうな。

 婢は個人の家以外では、寺院で働かされたり、尼や女冠(女道士のこと)に使役されていたそうです。では以下で、私家婢たちがどのようにして私家婢になったのか見ていきましょう。


1.官婢だったが、個人に下賜された者

 これについては説明は不要ですね。


2.戦争で捕虜にされた者

 外国や異民族と闘った場合、得た(捕らえた)戦争捕虜は皆奴婢にされたそうです。また、唐末に起きた農民反乱では、官軍に負けた反乱軍将兵の妻や娘は、官軍の将兵の婢として分配されたそうです。


3.強奪されて婢にされた者

 女性を強奪して婢にすることは法律で禁止されていたのですが、権力がある家では、権勢を笠に着て法律違反をすることがあったそうです。あとは、公主編でちょっと取り上げた安楽公主も、良民を力づくで奴婢にしたことがあった……って、お姫様がこんなことやっても許されたということは、この法律は名ばかりの、あってないようなものだったのかもしれませんね。


4.売却、あるいは質入れによって婢にされた者

 これが良民の女性が婢となる最も多いパターンだったそうです。

 災害や凶作、戦乱のために税を収めることができなくなった貧農は、泣く泣く子供を売る。それか、子供を債務のかたにしたり質入れしたものの、期限が来ても返済できずに、債権者に子供を奴婢として取られてしまうことも多くありました。それに、たとえ官僚の家の娘でも、一たび没落してしまえば、彷徨い歩くうちに強奪されて売られてしまうこともあったそうな。


 唐代では奴婢を売買する市場が大変多く、私人だけでなく官府も売買に参加していました。奴婢を売買する際には、まず市場の役人が検査をして値段を付け、それから証書を作って取引されていたそうです。

 取引される奴婢にも地方差があったらしく、女子の売買は嶺南(現在の広西省、広東省)が最も盛んで、皇帝によって嶺南地方での奴婢の略奪と売買が禁止されたこともあったそうです。その他、少数民族の女性を専門に扱う者もいたそうで、登州(山東省煙台市)や莱州(山東省東部)では新羅奴(朝鮮人奴隷)を専門に売る市場があり、西北辺境では突厥人の奴婢が使用されていたそうです。唐代の王侯貴族はこうした「蛮婢」を使うことも少なくなかったとか。


 婢の値段は年齢、容姿、技芸の他、その年の景気や地域間の格差、市場の需要と供給によって上下します。美しいだけでなく楽器の演奏などの特技がある婢などは数万~数十万銭の値段が付きます。が、凶作の年などは奴婢として売られる者も多く、当然市場に奴婢が溢れるため価格も暴落し、婢一人が数百銭(米数斗分ぐらい)にしかならなかったそうです。


5.奴婢の娘

 奴婢の子である女性は当時「家生婢」と呼ばれ、ほとんどの場合は一生を婢として生きたそうです。

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